36番ありがとう

 大学同士の団体戦となれば、自分の持つ各大学のイメージが重なって、自分の大学でなくても多少面白く見ることができるのですが、自分のホームグラウンドではない関西で、しかも個人戦ということで、感情移入して観戦することなどできない。
 しかし、逆に言えば、それだからこそ名前や肩書き的、余計な要素を取り払い「拳法そのものを見る」ことができたのかもしれません。
 また、数十メートル離れたところから観たので、各選手の細かな拳法の技術よりも、全体としての存在感や精神力を「感じる」という観戦の仕方になったのだと思います。

 わずか数時間の間に、9つのコートで(自分が全く知らない)数百人もの人間が戦うのを観戦するというのは、退屈を通り越して苦痛でもある。
 しかし、そのなかで、たまたま目にした一つの試合に、私は強く惹きつけられました。
 それは成年女子の部で行われていた試合の一つで、その中肉中背の選手の背中に張られた「36番」というゼッケンは、かろうじて読むことができました。
 
 2分間の試合の結果、この人は負けてしまったのですが、その2分間は私にとって非常に重みのある時間でした。
 「36番の拳法」とは、拳法の試合を見ているというよりも、美しい踊りや素晴らしい芸術作品を見ているようでした。
 そして、私の中に眠っていた多くの思い出を呼び起こしてくれたのです。
 自分にとって大切なことに気づかずに人生を終わるところ、貴重な思い出を掘り起こしてくれた、とさえ言えるかもしれません。

 以下、私がこの人の拳法によってインスパイアされた(惹起)されたことを、簡単にまとめてみましょう。

① 40年前に見た素晴らしい(思い出深い)拳法を再現してくれた

 

 拙著「思い出は一瞬のうちに」のうち「心に残る名勝負」
 昭和53年、東京で行われた昇段級審査会における、立教大学と日本大学のキャプテン同士の試合。

 そこで展開された二人の素晴らしい拳法について、いったいなにが素晴らしいのか、どこが良いのか。
 40年前の若き私には、その試合に感銘を受けたとはいえ、それを言葉で表現することができなかった。
 しかし、40年後の今となると、逆に言葉で説明できても、試合の記憶が薄れてしまっている。
 
 ところが、今回「36番の拳法」を見ることで、40年前に見た素晴らしい拳法とはこのことであったのか、と改めて納得することができました。

 また、昨年の早稲田大学日本拳法部キャプテンの拳法、それはYou-Tubで断片的に見たのかもしれませんが、それも今回の「36番の拳法」から思い起こされました。

② 宮本武蔵「五輪書」

 

今まで理解できなかった「五輪書」の幾つかの部分を解明することができました。
 たとえば、「水の巻」における「有構無構の教え」について。
 相手の構えの形、位置、景気(勢い)に合わせて自分の構えを変える、ということなのですが、「36番の拳法」はそれを具体的に見せてくれた。
 更に、「自分の構えによって相手の構えを誘導せよ」という、武蔵が最も言いたかったことを教えてくれたのです。

③ アナログとデジタルの違い


 「36番の拳法」は、アナログとデジタルの違い、交流と直流の交差、別の観点から言えば、differential(微分)と integral(積分)の関係を見せてくれた。
 日本の禅宗(臨済宗)における最高峰とも言われる経典「金剛経」。そこに述べられた禅の要諦ともいえる内容を「36番の拳法」が目の前で見せてくれた、といっても過言ではないのです。

④ 大学日本拳法とは哲学である


「大学日本拳法とは哲学である」これは「思い出は一瞬のうちに」で述べたことですが、では、いったいどういう拳法が哲学なのか、と言われれば「40年前の大学時代に見た拳法」としか言い様がなかった。

 しかし、いま目の前に「36番の拳法」という「生きた化石」がいる。
 この人の拳法から、いま私は「大学日本拳法とは哲学である」という主張に、より自信を深めることができた。
 大学日本拳法とは道であり、自衛隊や警察のように、相手を殺す、捕縛するための道具(手段)ではない。
 自分自身の魂を磨き精神を高め、自分の本質を追究するための道。
 自分の本質とは、究極的には「自分は日本人である」という自覚・確信を持つことであり、茶道、華道、そして(日本人の行う)禅とは、そのためのひとつのアプリケーションなのです。

 哲学とは自分で行うものであるならば、各人が「36番の拳法」を見て、なにゆえにこの拳法が哲学なのかを哲学すべきだろう。

 まるで、ガラパゴスの希少動物が、東京の動物園に連れられてきてしまったような、あるいは、オリンピックで優勝した純真な魂が、在日系の俗っぽいマスコミの記者たちに「金メダルを噛んで下さい」などと要求されて、そんな情けない姿で写真に収まるようなことにならないことを祈るばかりだ。

⑤ 私たちは自分を生かすために戦う」のだ、という自覚


 宮本武蔵が「五輪書」の冒頭で述べたように、「戦う」という心は、人間が生きる上で最も大切なことだ。
 戦うといい、「自分を奮い立たせる、元気づける」でもいいだろう。
 朝鮮人や韓国人は「80年前に日本人にいじめられたから、日本がアメリカに負けたいま、自分たちも勝者と偽り日本人をいじめてもいいのだ」と言って、「日本人を騙せ、日本人を殺せ、日本人を犯せ」という戦いの心で生きている。

 しかし私たち日本人は、広島で80万人の日本人が原爆で殺されても、「アメリカ人を恨む」という闘争心など持たなかったし、東京帝国大学・帝国士官学校・帝国海軍兵学校出身の愚かな日本の戦争指導者たちを恨むこともしなかった。

 日本人はいつでも、自分と戦ってきた。
 自分で自分を奮い立たせ、怒りも恨みも悲しみもない「空の心」によって、世界に類を見ない戦後復興を成し遂げてきた。
 あえて言えば、ドイツくらいのものであろう、世界中で日本と同じ心で今を生きている民族は。
 ただ、あえて言えば日本人はドイツ人に比べて「楽しむ」ことが上手だ。
 生活を人生を、様々な工夫によって面白おかしく、味わい深くしてしまう。
 あの大阪西成区、愛隣地区のホームレスたちでさえ、様々なやり方・スタイルで、悲惨な毎日をけっこう楽しく生きている。

「36番の拳法」とは、普通の憲法に比べ、かなりの気力の充実・肉体の鍛錬が必要な拳法でしょう。
しかし、そこには楽しんでいる、という雰囲気が伝わってくる。
 あの大阪市立登美丘高校のダンスと同じように、苦しくてつらいけれども、そこには真に拳法をダンスを楽しんでいるという感じが伝わってくるのです。

⑥ 東洋大学の日本拳法とはなんだったのか」の答えに導いてくれた


 昭和54年、東洋大学日本拳法部の戦力は、当時の関東における大学日本拳法界において、かなり顕著でした。
 しかしながら、監督の長澤政行氏も他のOB諸氏たちも「必ず優勝しろ」と檄を飛ばしたり「絶対に優勝できる戦力だ」などと説得するようなことはなかった。

 東洋大学日本拳法部にとって最も大切なことは、その練習にあったのです。
 毎日2時間(時には3時間)の練習に集中すること。
 道場で正座し神前に礼をした瞬間から、練習後に同じく礼をするまで、ぶっ続けで大声を出し、喉が潰れ、気根が枯れるほど死に物狂い、一種のきちがいになってすべてに打ち込む。
 準備体操から筋トレ、打ち込み、防具という流れの中で、すべての動作が全速力、全身全霊をかけて体操をし、拳立てをする。
 防具を着用する時でさえ必死です。いかに素早く機敏に、しかも絶対正確にバンテージを巻き、面を付けなければならない。
 ちょっとの紐の緩みや、1ミリでも位置がずれれば大けがをするのですから。

 なにしろ、拳は相手の顔面を砕き、脳みそを突き抜け、頭蓋骨を粉々にして頭の後ろに拳が突き出るくらい強く。
 蹴りは相手の内臓を突き破り、背骨を砕いてその後ろに蹴った足が突き抜ける。
 それくらいの気迫で殴って蹴る。それが当時の東洋大学日本拳法部の練習でした。
 
 ですから、夏場は毎日、必ず誰かが倒れる。
 風邪で高熱であっても、練習以外の事故であばら骨を二本も折っていても、皆と全く同じ練習をする。

 そんなクレージーな練習に毎日耐え、自分で自分に勝ち抜くことこそが、東洋大学日本拳法部の「優勝」だったのです。
 毎日優勝しても、誰も祝福してくれるわけでもない。

 怒られたり、ヤキをもらったりする人間というのは、できるのにやらない奴、力を出し惜しみする奴でした。
 

「36番の拳法」をみた私は、あらためて「試合に勝たなくたっていいじゃないか。こんなにも拳法に集中し、自分ばかりではなく見る人までをも幸せな気分にしてくれる拳法があるのだ」と感心し、大学日本拳法というものの奥深さ、味わい深さを改めて実感したのです。

⑦ 「36番の拳法」とは

 

○ 野球で言えば「イチローの野球」であり、サッカーで言えば、往年の「ペレやベッケンバウァーのサッカー」ボクシングでいえば、「モハメド・アリのボクシング」。
 一方、自衛隊や警察の「日本拳法」とは、ジョージ・フォアマンやマイク・タイソンのボクシング。
 
○ 「36番の拳法」も登美丘高校のダンスも、彼女たちにとっての聖書(バイブル)
 一つ一つの試合やダンスが強烈な思い出であり、それはそのまま彼女たちの教科書となる。
 苦しいときも悲しいときも、この2分間(2分30秒)を思い出すことで、ぶれない生き方ができる。
 安易な選択、邪悪な誘惑、正統的でない生き方から守ってくれる思い出なのです。

○ 技術ではなく芸術
 この人が試合に負けた(優勝できなかった)のは、技術の完成よりも、たとえ未完成であっても芸術的な道を選択したからではないだろうか。
 相手をやり込める、負かすという外部への働き・技術ではなく、内に完成する道。いま手にできる技術ではなく、その先を越えた人生、さらには運命に至る困難な道を選んだ。

 80年前、ドイツ人は、いま勝てる技術の開発ではなく、未来にそして来世のための運命への道を歩むことにした。
 36番もまた、遠回りではあるが、日本人として再び、同じ自分に戻るための、気の遠くなるほどの長い道程を選択したのです。

 シューベルトの「未完成交響曲」とは、技術的には未完成だとシューベルトが考えたにせよ、芸術としては完成されている、ということではないか。もちろん、世の中に真に完成されたものなどない、ともいえるのだが。


○ 文学的なる数学
 戦いは詩となり物語となる。
 精緻な幾何学的模様は文学であり芸術である。

○ アナログ拳法は美しい旋律と心地よいリズムを醸し出す


○ 「36番の拳法」からインスパイアされた世界の名言
 「明日世界が終わるとしても、今日、私はリンゴの木を植える」ルター

 「アマチュアではないので、勝つことだけが目標ではありません。プロとして自分がどういうプレイをするのかがすごく大事です。」イチロー

 「大切なのはどれだけ沢山のことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです。」マザー・テレサ
 
 「私が心から恐れるのは神の法だけだ。人が作った法はどうでもいいと言うつもりはないが、私は神の法に従う。何の罪も恨みもないべトコンに、銃を向ける理由は私にはない。」モハメド・アリ

 (モハメド・アリの葬儀に向けて)アフメット・ダウトオール前首相はトルコ語で次のようにツイートした。「拳ではなく、心と魂で闘った人」


 「髪梳けば 髪吹きゆけり 木の芽風」日本映画「けんかエレジー」