1 プロローグ

 

  2018年9月16日(日)日本拳法総合選手権大会が、大阪で開催されました。
 前日の土曜日、「岸和田だんじりの熱狂」に感激した私は、日曜日も又、この祭りの醸し出す、いかにも日本人的な雰囲気を味わいに行く予定でした。

 なにしろ、数トンもある山車(だし)を大勢の子供や若者たちが全速力で引っ張り、90度の曲がり角を数百人の心を一致させ、いかにも日本人らしい心のチームワークで一気に旋回する。その時の激しい音と歓声と気合い。車輪の保護カバーのゴムが道路とこすれて焼け焦げる匂い。 山車の一番前の綱を引く小・中学生、次に高校生、そして若衆と続く。その後ろを、赤ん坊を抱いて走って追いかけるお母さんや子供・年寄りたち。道路で交通整理をする若衆、数十の山車の運行状況の連絡を取り合う世話役の年寄り衆。

 岸和田市各地区の住人全員が協力して、「だんじり」という一つの芸術作品を作り上げる姿は、どんな絵や映画や交響楽よりも迫力がある。一人一人が、それぞれの個性・力を発揮して山車の走行に関わりながら、全体として一つの大きな絵に、彫刻に、音楽になっていく。まさに、毎年私たちに「日本人の素晴らしさ」を思い起こさせてくれる、あの「登美丘高校のダンス」を思わせる「日本人的芸術の頂点」を見る思いです。
   山車(だし)と言い、京都の祇園祭や青森県のねぶたのような、市役所や警察の管理下に置かれ、完全に観光客相手の見世物となってしまった祭りと違います。山車の上に「○○警察署長許可」なんて不粋な表札も無ければ、踊り手たちが市長や警察署長の前でペコペコする、なんてこともない。あくまで、俺たち・私たちが、自分たちのために、この一年のあるいは何百年も続く地元の心意気を、一人一人が自分に向けて発散させる場としての祭りなのです。
  一人一人の引き手が「自分と戦う」姿は、まさに真剣勝負。大学日本拳法という「真剣勝負」「自分との戦い」を体験した者だからこそ共感できる、熱気・気迫です。

 日本拳法とは自分でやるものであり、それができない今、それに代わる別の感情移入の場を求めていた私にとって、「岸和田のだんじり」「徳島の阿波踊り」、そして「登美丘高校のダンス」とは、見るだけで日本拳法(の興奮)を味わえる、今の私にとって最大の楽しみといえるのです。観客席から観る日本拳法なんて、スマホで見る大相撲、新聞の4コマ漫画のようで、迫力も感動もない。この日も、そんな日本拳法観戦より、だんじり、というつもりでしたが、せっかく大阪に滞在しているのだから一回くらいは見ておこうと、気乗りせずに行った大阪市立中央体育館。
 ここで私はしかし、40年ぶりに「日本拳法の素晴らしさ」を再認識することができたのです。
 

 

 

2 「36番の拳法」

 

 自転車でいくつかの運河を渡ること30分。成年男女の試合が始まる頃を見計らって着いた巨大な試合会場の中には、コート(試合場)が9面もある、選手や観客の数も、かつて私が体験した関東における大学時代の日本拳法の大会に比べ、桁外れという位に大きい。

 しかし、こんなハードウェアの迫力に惑わされてはいけない。日本拳法の本質はミクロの時間と空間、そして個人の気迫というソフトウェア(内面の葛藤)にこそある、なんていいながら座った観客席は、Aコートの正面。成年男子・女子の部はA・B・C・Dの4面で行われていましたが、聖徳太子ではあるまいし、全部見れるわけがない。結局、A・Bコートのどちらかを観戦することになりました。

   歳のせいか、アナウンスもよく聞き取れないし、選手のゼッケンもよく見えない。こんな大きな試合会場の観客席から見る日本拳法とは、大学時代、試合や昇段級審査会で数メートルの近くで見た日本拳法とは全く違うという位、迫力が無い。大体、自分の大学や贔屓の選手という、感情移入できる要素がまるで無いのだから、面白くもなんともない。 おまけに、「何でもいいから、ぶっとばせ」なんていう指導を受けて育った人間ですから、拳法の理論や技術を楽しむなんてこともできない。あくまで「ノリ」というか「感性」で楽しむ、行き当たりばったりのストリート・ファイトのようなものです。

 しかし、ここで私は、数百人の出場選手のなかで、女性という範疇を超えた「人間」という、より普遍的な存在として見るべき選手を見た。その名は「36番」。


 まるでX JapanのYOSHIKIが、優しい微笑みでピアノを弾くように、登美丘高校ダンス部の人たちが楽しそうにダンスを踊るように、この人もまた、日本拳法という旋律・踊りを楽しんでいた。
 もちろん、高度なピアノの演奏とは、研ぎ澄まされた繊細な神経と鍛錬された指先だけでなく、身体全体の筋肉と強力な集中力があってこそ、にちがいない。
 また、登美丘高校のダンスにしても、夏休み期間中毎日10時間といった、厳しい練習の積み重ねの上に咲いた「優雅な華(はな)」。気楽に散歩でもしているかのような春風駘蕩の表情をしながら、あのスピード、力強さ、そして正確無比の時間と位置の一致を成し遂げるというのは、甘えた馴れ合いの環境では実現できないだろう。
 風邪で40度の熱があっても練習は休めないという、狂気ともいえる練習を経験した私には、その正と狂の境目がよくわかる。(もっとも、私の場合は嫌々やっていたので、全く華にならなかったわけですが。)

 そのギザギザ(凸凹)感のない、なめらかなアナログ的動き風味は、デジタル拳法には感じられない、超現実で絶対的な存在感を醸し出す。まだ若い」関東人に比べて、「老練・老獪な」関西人、直接的でとげとげしい関東弁に比べて、まろやかでよく熟(こな)れた関西弁。そんな風味を味わうことができました。

 ほんの一瞬とも言うべき2分間の中に、バッハの重厚さと緻密さ、シューベルトの旋律の美しさ。そしてその中にある、X Japanや登美丘高校ダンス部、岸和田のだんじりの、いかにも日本人的なるエネルギーを感じました。つまり、一人一人が個性的でありながら、同じ血が流れる集団としての、無理がない協調・自然な連携・心からの一体化を「36番の拳法」に見たのです。

 

 

3エピローグ                   

 

 

①    それだけ素晴らしい拳法が、なぜ優勝できなかったのか
  この人は、この人のこだわりを持って自分の芸術を作り上げていた。自分の道を追究していた。勝ち負けという目に見える評価・基準を得るために発揮される外に向けての努力と、(自分を芸術にまで高めようという)精神的な満足感を得るために挑む内へ向けての戦いとは、共に大切な努力・戦いではあるが、区別して評価することもできるだろう。
 「優勝」という言葉には誰も逆らえない。そういう絶対的な評価は祝福することは大切だ。しかし、勝つことへの執着よりも、自己の充実にこだわった人もまた等しくrespectされるべきであろう。
 少なくとも私は、勝つ拳法よりも自分のスタイル・美的感性にこだわり、己のポリシーから外れずに戦いを全うした人に親近感を覚える。畢竟、私たちは人間とではなく、運命と闘ってこそ、来世への道を歩むことができるのだから。

 2018年の高校ダンス選手権(の評価基準)で、大阪市立登美丘高校のダンスは、優勝という評価を与えられなかった。
 しかし、いかにも高校生(16歳~18歳の若者)らしく、一人一人がすべての身体の機能を極限まで駆使し、圧倒的な集中力によって舞台全面を100パーセント使い切るという、演技ではなく人間として持ちうるエネルギーの発揮度合い、という観点からすれば、彼らのダンスには、後世がなかなか越えることのできない金字塔とも言うべき、素晴らしさ以上の偉大さがあったではないか。優勝できなかったのは運命だ。しかし、人間の評価を得るために小手先の技術でごまかさず、あくまで、自分たちの全身全霊を駆使して運命と闘ったその姿は、人間以上に偉大な存在がしっかりと見ていたにちがいない。

② 道のない拳法
 男子の部で、やはり攻撃の切れもいいし、力があるにかかわらず優勝できなかった人がいた。
 しかし「36番」と違うのは、一つ一つの攻撃・技に愛がない、丁寧さに欠けるという点。ノリの良さはあるのに、法がない。かといって、絶対に優勝しようという執着心も薄い。
 黒澤映画「椿三十郎」(1957年)のラストで、斬り倒した敵である室戸(むろと)を評して、三十郎はこう言う。「こいつは抜き身だ(よく切れる刀・強い)。だが、鞘に入っていない。だが、本当にいい刀は鞘に入っているものだ。」と。
 「鞘」といい、社会の法律に則したとか、組織に順応したという意味ではない。天地自然の理、人間としての道ということ。

③ 成年女子の部で「36番の拳法」と同じスタイルの人がいた
「37番」であったろうか。

④ 愛媛県の小中学生3姉妹(上の2人は実の姉妹)と、小学5年生の男子
 彼らの強さは圧倒的。
 子供というのは正直ですから、指導者の言うことを鏡のように素直に受け入れる。拳法の勝ち負け以上に、そういう澄み切った心を、より磨き深める場として、この道場は正しく機能しているようです。

⑤ 映画「第三の男」のラストシーン
 一人の女性が冬の並木道を独り歩いて去って行く。この映画のストーリーや役柄とは無関係に、この女性(一人の人間)は、自分にとってかけがえのない人を失ってもなお、力強く1人で自分の道を歩んでいく。金や恋人以前に、自分の道を見失わずに歩み続けることの大切さを、この映画は訴えているかのようです。
 X JapanのYOSHIKIは自分の音楽を、登美丘高校ダンス部は自分たちのダンスを、そして「36番」は個性的な自分の日本拳法にこだわりを持ち、それを自らのバイブルとして(正しい)道を歩むことができる。肉体的に日本拳法ができなくなっても、そこで鍛えた心と精神は彼らの道を照らしてくれることでしょう。

  ありがとう「36番」。
 いいものを見せてもらいました。

 

 

 2018年10月7日

 平栗雅人

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