36番ありがとう   V 1.5

アナログ拳法とデジタル拳法

 どうも「3分間3本勝負」というのは退屈だ。
 ほとんどの人が1本取ると、守りになって積極的に攻撃をしなくなる。

 デジタル的(勝つこと、ポイントを取ること優先)で、アナログ的な(自分の拳法を楽しんでいる)選手をあまり見ない。みなポイントを取られることにビクビクして、思いっきり自分の力を発揮していない。失敗することを恐れて踏み込めていない。
 テストの点数ばかり気にして、教室以外の様々な場で学生ライフを楽しめないインテリのようだ。
 (私はたまにYouTubeで見るくらいですから「盲人が象をなでて、その全体像を語る」ようなもので、自分の思索を楽しむだけの、まさにアナログ的な話ですが。)

  40年前は3分間本数勝負制という「時間優先」でしたから、様子見の初めの一分、盛り上がる中盤の2分、そして白熱する3分という流れ、序破急というス トーリーが生まれ、やる方は3分間フルに動き回るので疲れましたが、見る側としてはどの試合も楽しかった。流れる時間と白熱する空間に一体化できたから だ。

 特に、三段クラスの試合になると、ポイントを取ることに執着するというよりも、戦う2者がどこまで自分の拳法に徹しきれるかという、彼ら自身が自分と戦う姿、自分自身の掘り下げ方を3分間じっくり見れて、格闘技を見るというよりも哲学的な味わいがありました。
 学生時代に見た某大学のキャプテン同士の戦いなど、細かい部分は記憶から薄れてしまいましたが、私の人生におけるひとつの「啓示」のようなものとして、今でも日本拳法について思ったり考えたりする時には、必ず思い起こされます。

 絵でも音楽でも、デジタル処理されたものより、直接見たりライブで聞く「アナログ的」な鑑賞の方が印象に残る。
 小説でも、電子ブックなんかよりも紙の本の方が読んだという実感がわく。デジタルというのは、どうも人工的で作り物という感じがして、リアリティに欠ける。

 昔の日本拳法の試合も、自然でリアリティがあるという意味でアナログ的でした。
  ポイントを取る取られる、 攻撃する・防御する、 攻める・守る、 打つ・受ける、 前へ出る・下がる(後退する)という行為が、まるで交流電流の波形の ように交錯する。ギザギザの途切れのあるデジタルではなく、美しい音楽がきれいな正弦波形を描くように流れ、自然の景色が季節の移り変わりとともに変化し ていくように、時間と空間が美しく同期している。ゆったり、じっくりと、長い時間をかけて熟成された日本の美しい山々を見るように、すんなりとその景色 (試合)に感情移入できるのです。

  組み打ちの場合、「場と間合いとタイミング」がうまくかみ合い、殴り合い・蹴り合いからもつれ合いに入る流れがそのまま投げや膝蹴りとなってスムーズに決まる、というのはまさにアナログ的です。

  きれいに一本背負いが決まったり、組んで相手が膝蹴りをしようとする時、その軸足を払ってスコーンと倒して押さえ面突きをする、なんていうのはいかにも自 然に 適っていて、見ていて気持ちがいい。 また、試合時間が残り1分を切った時点で、どうしても決着をつけるために組み討ちで勝負をかける、というのであれ ば、それはそれで試合の流れとしては自然でしょう。

 ところが近頃は、早くポイントを取るために、試合開始からいきなり熊が立ち上がって 襲いかかるようにして上から覆い被さり、力任せに投げにかかったり、相手を場外に押し出すことによる注意や警告によって試合を優位に進める、というような 場面をよく見る。まあ、それも戦術のうちなのかもしれないが、見ている方は退屈だし、やっている当人もそれで面白いのかな、と思ってしまう。

  身体の大きい人が、技でもタイミングでもなく、ただただ力任せに相手を押しつぶすなんていうのは、1か0かというデジタル世界では有りでしょうが、日本拳法の試合を自分も観客も楽しむというアナログ的な観点から言えば、色気も味わいもあったものではない。
 柔道なら投げの打ち合い、日本拳法なら(面突きの)相打ちの一瞬、どちらの攻撃が有効(一本)だったのかという「生か死か」の一瞬に、真剣勝負の醍醐味を味わう。 自分の現役時代、面突きばかりやっていた私には、どうしてもそう感じてしまう。

   私自身、大学1年生の頃は「何でもいいからぶっ飛ばせ」なんていう指導を受けていましたから、とにかく3分間、アホみたいに殴りまくるという、やはり、見 ている方は面白くもなんともないデジタル拳法でした。それがコーチや監督から指導を受けたり、昇段級や大会での素晴らしい試合を見たりしながら、4年生の 頃には「シャモのケンカじゃないんだ。もっと攻撃にメリハリをつけろ、自分のリズムを持て、見せ場を作れ」なんて、偉そうに、しかし(心から)後輩たちに 言えるようになりました。

 まあ、やっている当人が、自分の体型や運動性能に適した、自分なりの日本拳法を楽しむのが一番いいのですから、3分間殴り続けることにこだわるのも、自分の得意な組み打ちでとにかく勝つことに執着するのも、その人の勝手です。

  もちろん、団体戦の中盤戦になれば、ここ一番、なんとしても負けられないという場面では、組み打ちで確実にポイントが取れるなら、自分の拳法スタイルなどかまっていられないということもあるでしょう。

 ただ、殴り合いなんてしたことがない全くの素人や、格闘技を知っていても日本拳法の門外漢、或いは、選手とは友人でも知人でもない赤の他人が見て「これぞ日本拳法」というくらい気持ちがいいのは、やはり「美しい面突き」がスコーンと決まった瞬間ではないのでしょうか。

  また、C大のお家芸ともいわれた「美しい胴突き(抜き胴)」もそうですし、きれいに決まった時の一本背負い、ズコーンという重厚な響きのある膝蹴り、サッ カーの蹴りとは違う日本拳法独特の「突き蹴り」とも言うべき直線的な鋭い蹴りにしても、他の格闘技では(選手も観客も)味わえない日本拳法ならではの醍醐 味です。

 空手などでは早すぎて見えない技が、日本拳法の場合、重たい防具を着けているため比較的よく見える。また、ボクシングのような選手同士の直接的なダメージによる勝負の決着ではなく、「一本」という、選手・審判・観客(誰が見ても正しいという)三者の同意によって勝負の判定がなされる、という楽しみがあり、しかも、その一本が「場と間合いとタイミング」によって導き出された解であるところに日本拳法の面白さがある。

 

 宮本武蔵も、最初の決闘では組み打ちで勝っていますし、「五輪書」にもいくつか組み打ちに関する記述があるくらいですから、剣でも拳でもケンカでも、実戦において決して疎かにはできない戦いのphenomenon、phaseでしょう。

  しかし、いくら「クリープを入れないコーヒーなんて・・・」とはいえ、やはり「コーヒーが美味くなければ・・・」と思うのです。自衛隊や警察の拳法はわかりませんが、少なくとも「大学日本拳法」の場合には。

  自衛隊は本当の殺し合い・命がけですから、首を絞めようが腕を折ろうが、とにかく相手を瞬時に制圧しなければならない。絶対に負けられない。負けとは、すなわち自分が死ぬことであり、日本という国家が外国に侵略されることを意味するのですから。

 

  ところが、大学日本拳法とは、勉強で英検一級を取るとか司法試験に受かるとかといった目標を持つのと同じで、昇段級審査や大会を目標にしてこれに励むこと は大切ですが、あくまでも教室の勉強では得られない「コミュニケーション」を学ぶものだと私は思います。 殴り合いという、仲よくするのとは正反対の行為を通じて、実は、いかに家族や友人・知人、また仕事での取引先との付き合い方を学ぶのです。

 

   そんな偉そうなことを言って、お前は会社は辞めるし、坊主も辞める、奥さんとは離婚をするし、友達だっていないじゃないか、と言われるかもしれませんが、 それは私が「今回の人生は、これでやってみよう」という、言わば好きでやっているというか、ひとつの実験と観察のつもりでやっているからです。

  29歳で営業・マーケティングでよい成績を残して米国駐在員に決り、「オレの今までの人生はなんて楽しかったんだ。」と思った時、もう一人の自分がこう言いました「今がお前の絶頂期だが、これからは下り坂だな」と。
  で、それを自分でも納得したのです。 つまり、私は58歳で人生を終わるべきところ、予定を過ぎてもお迎えが来ない、というわけです。

  私の場合、少なくとも大学卒業から米国へ行くまでの疾風怒濤の5年間を、まさに私の拳法的「殴り合い」で乗り切れたのは、子供の頃のケンカでは得られな かったであろう、殴り合いのケンカの意気込みを、対人関係でうまく逆転させ、成約・売り上げという数字に結びつけるという道へ転換することができたからで す。同じ殴り合いでも、単なるケンカではなく日本拳法という道に、自分の会社での出来事や私生活をうまく乗せて運ぶことができたのです。

 

  実際、皆さんの学校のOB諸氏の身振り・素振り・話し方、人との間合いの取り方・場の作り方・話の持って行き方といった面をご覧になって、「ああ、さすが 日本拳法で鍛えただけあるな」と感心することがあるはずです。 もしかすると、大学を卒業して自分も社会人となり、教室では教わらなかった対人関係において失敗したり悩んだ時に、ふと、そういう先輩たちの言動や behaviorを思い出すことで、「日本拳法の効能」を知ることになるのかもしれません。

 

 つまり、そういう先輩たちの洗練された振る舞いとは、皆さんが今やられている日本拳法から学んできていることにほかならない(のではないかと、私は思います)。

  たとえば、C大学日本拳法部のブログにおける、OB諸氏のコメントには、自分の後輩に対してというに止まらず、人を育てるうえでの、間合いの取りかた、タ イミングの測り方といった面で、学ぶべきことが多々ありました。 まさにこの大学の「抜き胴」で現役時代、鍛えられ・練られた境涯とでもいうべきものなのでしょう。

 

  日本拳法をやっている者が街でケンカをすれば、勝つのは当り前なのです。

  私たちは、真剣に・本気で・思いっきり相手の顔面を殴るという行為を通じて、「場と間合いとタイミング」の妙を毎日鍛練しているのですから。 しかし、それは決して力や小手先の技術で勝つのではない。

  そして、そこで学んだ「相手の心を読み・理解して、そして殺す」プロセスとは、「指パッチン」で180度回転し、人を活かす道になる。

  そういう、人を活かす、組織をうまく運営することに長けたOBが多いところほど、学生たちを盛り上げ、彼らと一緒に日本拳法を楽しんでいるわけです(優勝するしないとか、部員が多い少ないというのは、また別の要因があるのです)。

  今年の9月に、関東のT大学の日本拳法部を一人の部員が退部した。家の事情で大学を辞めるからだそうです。

  3人の仲間との、彼の最後の練習の後で撮った写真は本当に楽しそうだった。その数日前、ある大会で優勝したM大学の、40名を越える笑顔の集合写真にも匹敵するくらい、素晴らしい4人の笑顔でした。

 

 

  せっかくの3分間です。勝ち負けにこだわって消極的に踊っているよりも、自分自身の「場と間合いとタイミング」を鍛える・磨く場として、有効に使うべきでしょう。

  組み打ちにしても、自衛隊のように相手を押しつぶすというよりも、たとえば会社で、話し相手をうまく丸め込む(詐欺ではない)、相手の意見を別の方向へ逸 らしたり、その欠点をやんわりと指摘することで弱めたり、自分の望む(勝つ)方向へ導いたり、といったケースを想定するような戦い方で一本につなげれば、 より「風味」が増すと思います。

 

  そして、そういう「日本拳法らしい戦い方」に魅了された人が増えれば、日本拳法は柔道のように真の存在感・市民権を得ることができるような気がします。試 合場の照明や音楽で盛り上げるよりも、中身で見せる日本拳法・これぞ日本拳法(の醍醐味)という自分の自覚と観る者の評価を目指した方が、時間はかかるで しょうが、真の日本拳法の普及になるのではないでしょうか。