はじめに

    旧約聖書には「バベルの塔」という話がある。

    神の創造物の一つでしかない人間が、自分たちが作った巨大な建造物を崇拝し人間の力を過信したため、それまでひとつであった人々の言語が(神によって)バラバラにされ、互いの心が通じなくなった。数千年の昔、神は人間が作った権威に安心することを喜ばなかった、という話です。

 

    現代で言えば、強力な国家だの大企業、或いは巨大なビルや仏像という、しょせんは人間が作った虚像に騙されるな、名前だけのブランド品に心の快楽を求めるな、ということであり、神が人間だけに与えてくれた豊かな心を大切にして、謙虚にそして心豊かに自分の人生を楽しみなさい、という教えであったのでしょう。

 

 

    ともすると、人は目に見えるもの、巨大なものの存在に目を奪われ、自分の内に存在する(目に見えない)心を見ようとしない。目に見える現実ではなく、目に見えない心の方が本当の現実であることに気がつかない。実際、百年前の日本では、戦争そのものではなく、心の喪失によって国家が崩壊する危機に曝されていたのです。

 

    明治維新から始まった文明開化とは、鉄道やガス灯といった身の回りにある文明の利器からはじまり、軍艦や大砲といった巨大なもの、強いモノに人々の目が向けられ、人間一人一人の心が軽視された時代ともいえます。誰もが目新しい物や技術に心を奪われ、洋風の言葉や考えに目を奪われて、日本人が持つ本来の心を見失いかけていた。

 

    だが、このときの日本には、夏目漱石や森鴎外、芥川龍之介、北村透谷といった、多くの文学者たちが出現し、目に見える物ばかりに翻弄され、心の存在を忘れかけていた日本人に、心の大切さを教えてくれた。そのおかげで当時の日本人は目に見える物や出来事の裏には必ず心が存在することを、改めて認識することができたのです。

 

    そして、日清・日露戦争では、その心によって軍艦や大砲という科学技術力を支配(運用)することで、同じ性能の兵器を、ただ機械的に運用する敵の軍隊に圧勝することができた。当時の日本人は、単にマニュアル的・機械的に対応するのではなく、豊かな創造力と想像力(ソフトウェアの力)によって、機械や装置というハードウェアが持つ機能以上の能力を引き出して「勝利を創造」した。「日本人らしい戦い方」ができたのです。

    また、国家の大計ばかりを見て、ともすればひとり一人の心を軽視しがちな国家の指導者たちの中にも、「国家のストーリー」を作り出すことのできる、創造力豊かな文学的人間が多く存在したことも幸いしました。現代における故田中角栄氏や、(中国人ですが)故周恩来氏のような、詩情豊かで人間味のある本物の人間が、この日本にもかつては数多く存在したのです。

 

    西洋には「聖書」という心の書があるが、日本にはそれがない。

    聖書とは「ああしろ、こうしろ」という道徳的教訓が書かれた単なる宗教書ではなく、人の心を豊かにする優れた文学書です。西洋人は子供も大人も、このノン・フィクションに基づいたフィクション(物語)によって自分の心を照らすことで、心の真実を見出し、自分の精神を深く掘り下げるという心の鍛練を行ってきました。

 

    日本には「古事記」という「聖書」に相当する書がありますが、ギリシャ神話と同じで、あまりにも昔のことが書かれているため、暗号のようで人々が身近な生活に直接生かすことが難しい。

    また、世界でもまれに見るほど文学的なこの日本民族とは、聖書とかコーランといった、ただ一つの文学書では満足できない。この心豊かな民族のもつ詩情・情感を表現するには、一冊の書、一つのスタイルでは不足なのです。

    だから日本人はこれまで、聖書の代わりとなるような、自己を認識するための心の書を自分たちで数多く作ってきた。詩や小説のみならず、俳句や短歌、川柳や都々逸、小唄や浪曲といった、豊かな心を表現する様々な形式を考え出して、日本人としてのアイデンティティ(存在感)を、自分たちで自覚してきたのです。

 

    文学とは心の探求ということであり、文字のない縄文時代から、日本人は文学的感性を大自然の中で磨きながら、それを「縄文人の血」で継承してきました。

    西洋人は「初めに言葉ありき」と言い、言葉で心を伝えてきましたが、縄文人(日本人)は「血は水よりも濃し」「蛙の子は蛙」と言い、DNAでそれを伝えてきた。そして、その血とは極めて文学的な働きをする血なのです。だから、中国から日本へ文字(漢字)が伝わると、早速、自分たち独自の「ひらがな」という日本人の心を伝承する道具(文字)を発明し、実に様々な形式の文学を生み出してきた。中国人の「漢字による心の支配」に対抗して、ひらがなやカタカナを生み出すことで、自分たちの心の文化を守ることができたのです。

 

     明治・大正時代、堰を切ったように盛んになった日本の文学運動とは、西洋の物質文明が日本を含むアジアを襲ったときに、忽然として現れた日本の救世主でした。縄文時代からの文学的感性が、物質文明に翻弄され、内に存在する心が喪失されそうになった時、多くの作家たちが、素晴らしい文学作品を次から次へと生み出して、原始日本人の心を呼び覚ましました。そのおかげで、物以上に重要な心の存在を日本人は実感できた。日本人のアイデンティティを見失うことなく、西洋の文化と文明を吸収することができたのです。

    西洋の波がアジアに押し寄せた100年前、アジアのどの国もできなかった科学(技術)と文学(心)のバランスのとれた近代化を、日本がわずか30年程度の短期間で達成することができたのは、ひとえに日本人の持つ豊かな文学力のおかげであった、といえるでしょう。

 

    太平洋戦争に負けて日本全土が荒廃に曝された時も、坂口安吾や太宰治といった多くの作家たちが活躍し、日本人の心を救った。目に見えるのは爆撃で廃墟になった自分たちの故郷。そんなボロボロな現実の中で、人々は多くの有名・無名の作家たちの描いた心の景色を見て、困難な時代を生き抜いたのです。作家ばかりではない、縄文人の血が流れている日本人は、全員が文学者でもあります。昭和25年に行われた全国俳句・短歌大会で最優秀に選ばれたのは、文学者でもなく大学教授でもない、北海道の原野で働く一(いち)線路工夫の詠んだ短歌であったという。

 

    さて、その太平洋戦争ですが、日本は西洋の科学技術力を吸収し、ときにそれを凌駕するほどの力を持ちながらも、それを生かすべき国家の指導者たちの文学力が乏しかったために「バベルの塔」になってしまった。戦艦大和を作っても、その運用のしかたを知らなかった。

    この時の日本の指導者たちは、機械的・マニュアル通りにしか物事を考えることのできない非文学的感性の持ち主ばかりであったために、独創的・創造的感性豊かなアメリカの戦争指導者に終始翻弄され、自滅に追い込まれた。そして、敗戦の結果、それまで強固な一枚板であった日本人の心は、バラバラになってしまったのです。

 

    しょせん科学技術といったところで、ここわずか百年程度のものであり、日本人がこの日本列島という閉ざされた空間と時間のなかで、3万年ものあいだ培養してきた文学的感性に比べれば、パンの表面に生えたカビ程度のものでしかない。日本人は自分たちの心に存在している文学力をもっと大切にすべきでした。

 

    現代においても、政治に関わるエリート官僚や日本の大企業の経営者たちがトロトロした政策や企業の運営をして、いつでも外国に翻弄され、なめられ、後追いの戦いばかりやって失敗しているのは、同じく文学力の欠如が原因です。彼ら指導者たちが、「教科書やマニュアル」といった西洋人から教えてもらった知識ばかりに解を求め、技術や情報に心を振り回されているから、戦いの本質を見ずに勝機を逸し、独創的・創造的な戦いをすることができない。いまだに、真珠湾やミッドウエーをやっている、といえるでしょう。

 

    かたや、たかだか300年程度の歴史しかないアメリカでは、この文学力を磨くために、一流企業の経営者や政治の中枢に関わる人たちは、数人のチームで一週間かけてゴムボートで急流を下る、というような泥臭いトレーニングをしている。藪の中で野糞をし、急流の中で必死に櫂をあやつり、ケガをしながら命の危険を感じながら、知識や情報ではなく、人間として根源的に備わっているはずの文学的感性を呼び起こそうと、50~60代の爺さん・婆さんたちでさえ、彼らなりに努力をしているのです。

 

 

    21世紀、世界は再び「バベルの塔」へ突き進んでいる。

    人々は巨大な建物や作り物の権威に憧れ、安心感を見いだそうとしている。

    世界中で人間が引き起こすあらゆる出来事が、テレビやインターネットによって視覚化され、家のテレビや手にした小型コンピューターで手軽に見れる。地球の裏側の出来事でも、距離や時間の差を感じることなく、まるで月を見るかのように、世界中どこからでも見れるというのは、超巨大な「バベルの塔」が現代に出現したようなものではないか。

 

    ならば、現代における「バベルの塔」現象とは、やはり神が好まない状況といえるのだろう。コンピューターとインターネットをはじめとする高度な科学技術によって世界が統一されつつあるということは、とりもなおさず、人々が肝心の心を喪失し、世界がバラバラになる前兆であるのかもしれません。

 

    いま私たちにとって必要なのは、科学技術の進歩に見合う文学力(文学的感性)を、一人一人が「思い出す」ことです。幸い日本には、詩や物語、短歌や俳句、浪曲や小唄、都々逸や狂歌、最近では漫画やアニメといったバラエティに富んだスタイルによって、世界遺産と言えるくらい素晴らしいクオリティの文学的感性が数多く残され、いまも生産され続けています。

   

    この本では、この文学的感性(文学力)によって弱肉強食の戦国時代を勝ち抜いた、宮本武蔵という偉大な実践者が取り上げます。私たちは、文学力による戦い方を400年前に確立した日本人宮本武蔵の真の偉大さを正しく認識することで、自分たちが本来持っている日本人らしさを、あらためて自覚することができるでしょう。

 

 

 2016年3月

 平栗雅人



最終更新日 : 2016-03-06 02:01:03