ディーン・マーチンは言いました。
「オレはニューヨークが嫌いだ。エレベーターが多すぎる。オレはエレベーターを信用しない。人間が月へ行くなんて信じられるか。俺は嫌だね。」 

私もまた、地球の歴史は45億年で、宇宙の歴史は138億年なんて「科学」よりも、「何千億、何万光年分の物語を語り、一生どころか何世でも生き抜く」という、日本人(縄文人)の壮大な物語(ロマン)を信じたい。 

私たちが何億年、何万光年か後、再びこの日本で日本人として再会できることを楽しみに。

 

 

 

映画「君の名は。」

2016年11月29日(火) 

日本映画「君の名は。」

私はこの映画を台灣で観たが、250元(日本円で約900円)だった。

日本の映画館の半額だ。
しかし、それで良いと思う。
この映画は、素晴らしい映像と歌が絶妙のハーモニーを生み出し、飽きさせないテンポの良さで観客を夢の世界へぐいぐい引き込んでいく。これを楽しむだけなら900円で良い。

では、あとの半分、900円とはなにかといえば、それは「日本人にしかわからない体験」をさせてくれることへの対価である。
「何億、何光年」(RADWINPSの曲)もの昔から、連綿と続く日本人だけの血、日本人だけの思い出。
このことをこの映画は私たち日本人に思い出させてくれる。

日本人にとってこの映画は「夢」ではなく、現実の自分たちの物語。

から、900円高くてもいいのです。

日本人は大陸人(中・韓・台灣人)や欧米人と違い、血が混ざっていない。
「君の名は。」でキーとなる「組紐」とは、日本人だけのDNAで編み込まれている。
だから、私たち日本人はどこまでも過去を思い出すことができる。
「何億、何光年分の物語りを語る」という歌詞に違和感を覚えない。

そして、何回目かの人生で運命を変え(人々を救う)のは、「カビの生えかかった勇気」をもつ、ごく普通の高校生だ。
日本にスーパーマンやアイアンマンは要らない。
矢沢永吉のようなスーパースターではなく、アリスやオフコース、尾崎豊といった、どこにでもいるごく普通の日本人の歌に、人が作った夢物語ではなく、自分自身を見ることができるのだから。


この映画の公開とタイミングを合わせたかのように発表された「日本人のDNAとは他のアジア人のそれとはまったく異なる」という国立科学博物館の調査結果は、この映画の伏線とも言うべき効果を日本人に与えた。


遥か大昔、アフリカで誕生した人類の祖先が今の欧州やアジア、そして日本へ流れ着いたのではない。もともと、今の日本という国(地域)には、原日本人とも言うべき独自の人類が誕生していたらしい。武器や律令制度、天皇制といった、人間臭い社会制度や文明の利器は中国から渡ってきたのかもしれないが、人間本来の生活から生まれた文化に関しては、世界のどの地域よりも、遥か昔から「日本」に存在していたのである。
それゆえ、「北京原人」の存在が抹殺されたように、この「日本原人という事実」もまた、やがて忘れさせられるだろうが・・・。


企業が利益優先と同時に、企業文化というものを、ごく自然に、あるいは意識的に作り出すように、この大学は文化を作り出している。
現役とOBとの心のキャッチボールとも言うべきやり取り、心の交流によって、良き文化は増幅され、そうでないものは消えていく。川底に残った砂金のような文化を大切に拾い集めていくのだろう。

 

 

 

 

 

私はこの映画を台灣で観たが、250元(日本円で約900円)だった。
  日本の映画館の半額だ。
  しかし、それで良いと思う。

  というのは、この映画は、単一民族である日本人だけが問題意識として持つことのできる「前世・前々世からのつながり」というテーマをベースにしているからだ。
   そして、美しい日本語のセリフと音楽、素晴らしい映像が絶妙にマッチして、テンポよく物語が展開するところにこの映画の魅力の半分がある。
  中国語やハングル、英語では、この映画の素晴らしさの半分しか楽しめないだろう。すなわち、映像と音楽(のリズム)だけ。
  だから、半額でいい。

   この映画のテーマとは、外国人にとってただのフィクション・ファンタジーにしかすぎない。だが、日本人にとって前世・前々世からのつながりという話は、かなり心にグッと来ることであり、とても人ごとだとか単なる物語とは思えない。

  この映画の主人公たちのように、私たち日本人はいつでもなにかを探している。それは金でも就職先でもない、自分の片割れ、遥か遠い昔の記憶の数々。
  日本人なら誰でもが持つ、無意識にではあるが非常に強いこの思いを、初めてこの映画はテーマにしてくれた。
  「たかが漫画、アニメでしかない」はずなのに、妙に・不思議と・怖いくらい、この映画にのめり込んでしまうのは、映像美や音楽以上に、この映画のテーマが私たち日本人の琴線につよく響くからなのだろう。

   だから、この映画を観終わり、映画館から出てきたとき、私たちの心の中には日本人らしさがあふれている。
 
   なにしろ、登場人物たちの日本人顔、日本的街並み・日本らしい柔らかで穏やかな山並みと風景、そして美しい日本語の詞と素晴らしい曲によって、歌舞伎や能のリズムで展開する「前世・前々世からのつながり」という物語は、「日本人が日本人のために作った、日本文化のギッシリ詰まった映画」とさえいえる。それは、数万年の長きにわたりこの日本列島に日本人だけで生きてきた、私たち日本人しか実感できない世界なのです。

   その前世ですら、漢民族(だけで何十もある)なのかモンゴルか、それとも朝鮮・満州・ウイグル・匈奴・契丹・ベトナム・チベット等々、どこの誰だかわからない大陸人(中・韓・台灣人)に、この映画の音楽や映像美に感動しても、テーマについては、頭ではわかるが心で理解することは不可能だろう。
  彼ら大陸人(中・韓・台灣人)の場合、「君(の前世・前々世)の名前は ?」と問われても、今の彼らと前世・前々世のそれとをつなぐ「組紐」がないのだから・・・。

  だから、900円でいいのです。

「君の名は。」

 

 

2016年11月26日(土)

○ 日本人の幸福とは
どこまで自分の過去を思い出すことができるか、にある。
縄文人時代を越えて、「何億、何光年」分の記憶を一本の糸を頼りに辿る。

物と心の一致
→ 集中せよ

○ 「君の名」を探して
日本人とはなにか

○ 「君の名は。」と人形浄瑠璃
「一生でも何生でも生き抜いて行こう」
生と死
来世で再び会うという考え方

○ 日本人にはテーマ曲(テーマソング)がある
「君が代」
「君の名は。」

○ 苦しくて死にそうなときにこそ、真実が見える。
数万年の心の歴史への道がある。

○ 少しでも来世につなげる生き方
組紐を組むように、来世への手がかり、標(しるし、気持ちを表すもの)を編み込んでおく。
手がかり、きっかけ、トリガーになる名前、評判、人の評価。
悪名もまた、来世への土産、組紐の一部。
コソコソ生きていると、目立たない。
神に見てもらえる生き方でなければ、存在したことにはならない。


○ 日本人は自然を見るだけでなく、これと一体化できる。
だから、金がなくても人間社会で作られた地位や肩書がなくても、人生を楽しめる


○ 組紐
三年前に誰かからもらった。
それをくれた人は、三年度ころか何億年、何万光年昔の前世で出会った人ではなかったのか。
そして、日本人は必ずもう一度、或いは何度でもその人と出会うことができる。
日本人は、その人生におけるすべての出会いを肯定していれば、次の世でも、再びその人に会うことができる。


○ 日本人になるために(縄文人の記憶を思い出すために)
自分の「組紐」を見つける。
過去につながる目印・紋章・絆・きっかけ・糸口・記憶を象徴する物や出来事、言葉や文章、歌や詩。
日本人は、沢山の血が混ざり合った大陸人(中国・韓国・台灣人)とちがい、一本の糸で過去とつながっているから、数万年の過去の記憶を必ず思い出すことができる。
私の場合は、芥川龍之介の小説や大学日本拳法のブログ、そして、毎日夕陽を眺めることで自分が縄文人であることに気づいた。

○「 芸術の力を持って現実に立ち向かう」しかない
ヒッチコックの映画「殺人」で、ある殺人事件の冤罪を究明しようとする主人公は、その非常に困難な事件に対する決意を述べる際にこう言う。
まさに「君の名は。」のテーマと同じことを言っている。
即ち、人間の力で、神の定めた運命を変えることができるのだ、という。


○ この映画を見た外国人は、「面白かったね。」「絵がきれいだった、音楽がよかったね」と、1時間のドラマを楽しんだことだろう。
しかし、私たち日本人にとって、この映画の物語は単なるお話ではないし、他人ごとではない。
さあ、私たちも、主人公瀧君と同じように、自分探しの旅に出かけよう。
私たち日本人には、それができるのだから。

「ゴジラ」と「君の名は。」
日本を目覚めさせるな・覚醒させるな
日本人としての自覚を持たせるな

もし、日本人がゴジラのように永い眠りから目覚めたら、世界を支配する者たちにとっては最大の脅威となる。

世界的に見て、日本人が卓越して優れているのは、文化力・文学力であり、科学技術などはその延長線上に生まれた副産物でしかない。
日本人の文学力とは、「君の名は。」の新海誠監督のような人の能力のことであって、わけのわからない言葉や思想をひねくり回す村上○などではない。
世界は日本人の印象をミスリードしようとしている。


「神社」「鳥居」の力
○ 鳥居というものがここまで、私たち日本人の心を何かに誘うものだとは

○ 韓国人はこれではこの映画を韓国版に偽造できない

「ピコ太郎」
日本の文化を薄めよ
日本の文化を韓国のものに錯覚させよ。
アメリカはどうせまた「実写版」にして「日本の痕跡」「日本人の証明」を消そうとするかもしれないが。

 

「君の名は。」と日本拳法
何億年か何万光年前から同じ民族
韓国の軍隊でイジメがあった、というニュースがかつてあったが、彼らのイジメと日本の旧帝国陸軍や海軍でのイジメとはちがう。
殴る、蹴る、様々なしごきというのは同じであろうが、日本人の場合には、同じ日本人(縄文人)同士でやっている、という「安心感」がある。(大陸人(中・韓・台灣人)とはみなそうなのだが)韓国のように、何十・何百という民族の血が入り交じった人種では、
しかし、韓国というのは、つい70年前にできた国だ。韓国人とは、新羅か百済か任那(聖徳太子の頃あった朝鮮半島の日本人国家。当時の朝鮮半島は、新羅・百済・高句麗という3つの民族が争っていた。一番弱小の新羅が日本に要請して日本の軍隊を駐屯させるために作った国。いまの在韓米軍と同じ機能を担っていた。日本に任せる、から任那。)

あの半島は、中国(漢民族)・満州族・モンゴル・ロシアといった多くの国家によってこの2000年間支配されてきた、という歴史がある。中国の文書によると、モンゴルが今の朝鮮半島を支配していた頃は、毎年若い女性を二千~五千人も貢ぎ物としてモンゴルに提供させられていたという。どういうことかというと、食い物は少ないし工芸品も大したものがない。女しか戦利品として獲得するものがなかった、ということです。
朝鮮半島の人間というのは、農耕に工夫をこらして生産性を上げるということができない。日本人のように南国の産である米を新潟や北海道でも作れるように品種改良するという頭がない。いつでも貧乏だった。だから中国は、ベトナムなどに比べて「貢ぎ物が少ない国」という意味で「朝鮮」という名前を与えたという。


この2000年間だけを見ても、彼らの血というのはグチャグチャだ。
新羅・百済・高句麗の中では、高句麗が最も強かったらしい。あのモンゴルが半島に攻めてきた時、最も勇敢で頑健だったのが高句麗の軍隊で、次が旧百済・新羅の賤民(エタ・非人)部隊だったという。新羅・百済の貴族・平民階級は戦いもせずに逃げ回っていたという。

 

Why does the scenery of a town that no longer exists wring my heart so ?
今はもうない町の風景に、なぜこれほど胸を締めつけられるのだろう。


私たち日本人の運命を変えようとする者がいる。
自然災害を作り出し、世界中の人々を日本の敵にして日本を窮地に追い込み、日本人の最大の資産である日本文化を消し去り、博物館での見世物にしようとする者たち。
彼ら日本に悪意のある者の心とは、旧約聖書の最初に書かれた「嫉妬」に由来する。

ドイツ人たちのように、現代科学を超越した高高度な科学技術(軍事力)によって、南米に移住を完了し、完全無敵の領域を確保した民族もいる。新生ドイツには、アメリカのCIAも、ロックフェラーもロスチャイルドもロシアも中国も手出しできない。
唯一彼らに無いのは、日本的文化である。
100年後、彼らがそれに気づき日本の文化を求めたとき、すでに日本から文化は消え去っているかもしれない。

世界的に見れば、大きな文化が二つある。
ひとつはユダヤ的文化であり、もう一つは日本文化である。
ユダヤ的文化は世界を滅ぼす。
日本文化は世界中の人々の心を豊かにする。
様々な人種の中で争いながら生き抜いてきたユダヤ人と、数万年、否、もしかすると何十万年もの間、日本人(縄文人)だけで平和に生きてきた人種との違いだ。
日本人の的、争う相手とは自分自身でしかない。
自分の心を強くすることで、日本における最大の厄介事である地震、火山の噴火、そして、台風という災害と戦ってきた。
神は豊かな漁場と温暖な気候を日本人に提供しながら、地震という最も恐ろしい天災という試練を与えることも忘れなかったのだ。


数千年と数万年という歴史の違いだ。





しかし、日本文化はケンカに弱い。
他を避難したり、貶めたり、プロパガンダによって攻撃することが下手だ。
単一民族で生きてきたから、戦いが不要であり、他人と競争したり争うことが下手なのだ。


しかし、日本人にそれはできない。
日本人の資産とは優れた文学力であり、日本文化なのだから。

禅とは日本人の精神を追求することで、日本文化に接する道。
「五輪書」とは、日本的な戦いの哲学。クラウセヴィッツの「戦争論」の日本版である。
どうやって日本人になるか。
どう日本人が日本人に成りきれるか。


足の痛みの中で、背中を打たれる痛みの中で、ろうそくの灯の下で、線香の匂いの中で、けいさくの音の中で沈思黙想し、自分の過去の心へ還る。
原始の心に戻ろうとする運動であり戦いなのだ、坐禅とは。
積極的に、前向きに心を働きかけること。
ただ黙って黙想するのではない。
積極的に打たれ、痛みと向き合うという「戦いの心」こそ、心を過去へ帰すための力となる。

触媒が必要だ。
「五輪書」
「君の名は。」
歌舞伎・能・茶道・華道 屋 武蔵が「○箇条」で言った、様々な諸芸に触れよ、というのはその触媒のことを言う。

縄文人へ還る道。それが「○箇条」であり、「五輪書」なのである。

 

 

2016年11月12日(土)
○ 日本人はいつでも何かを探している。

欧米人や大陸人(中・韓・台灣人)たちのように、新しいものや月や火星の探検といったことよりも、自分たちの過去に興味を持っている。

5万年という膨大な日本人だけの記憶、心の歴史があるから、その撚り糸・組紐を辿る方が、よほど人生を楽しめるのである。

日本における坐禅の意味とはそこにある。インドのヨガや中国の坐禅とはちがうのだ。

日本人という、とてつもない濃い血に(精神的にどっぷりと)浸り、日本人だけの心のDNAで縒り合わされた組紐を見つける、日本人としての自分の本性を見る。これが日本人の坐禅の目的なのである。

 
2016年11月11日(金)

自分の組紐を探せ。
日本人なら必ず見つかるはずだ。

自分の片割れが必ずいる。
自分がかつて別の人間として生きていたことがある。
その時のことを夢で思い出すのだ。
「君の名は。」のように、一時的に成り代わっていたのではない。
その人間として生まれ死んでいった。その人の人生そのものを、別の人間であるあなたが生きていた。
そしてその時、その人間の魂はあなたとして、あなたの人生を生きていた。
いま男である自分が、かつて女として生きていたときの女性。
いま女性である自分が、かつて男として生きていたときの男性。
それこそが、自分の「片割れ」であり、それを探すのが、自分の人生の目的。
そして、それはたった一度の人生で見つからないかもしれない。
何億年、何万光年のあいだに繰り返される何十、何百回の人生の末に見つかるものなのかもしれない。
もし、あなたがこの人生で最良の人とめぐり遇ったと思うなら、あなたは既にその人生を何億年もの間に、何度も繰り返しているのかもしれない。
ようやくつかんだ自分の片割れ、人生の半分。
大切にすべきです。

西洋の学問とは人に教える、人より優位に立つための知識の多さ、難しさを「競う」ための「戦いの場」である。
日本人は単一民族だから、人を言葉のレトリックや、難解な公式や、知識の量で凌駕し圧倒する必要などない。
生まれたときから自分自身の中に蓄積されている、遠い過去の記憶を思い出すことで満足できる。
自分が本当の自分に成ることができれば、それが最大の幸福なのだ。
過去と現在と未来がつながることで、自分の存在は確定される。
他人に自分の能力や実在を認定してもらう必要などない。
自分が自分に成りきれば、それは未来への糸を見出したことになるのだから。

インテリとは、その膨大な知識が頭に入り込むことによって、魂が追い出された人間のこと。
いわば、ロボットであり、その知識という限定された世界の中でしか物事の善悪を判断できない。
法律とは、それは人間がある場面・場合を想定して作った極めて限定された「取り決め」であり、人間の判断によってどうにでもなる。紙に書かれたものは、人間の人生や生活、社会の様々な場面に対して、1000万分の一、1兆分の一以下の記述・説明でしかない。人の行動の源泉である心には膨大な歴史が刻まれている。それをわずかな言葉や文章、一編の規則や法律で規定することなど不可能なのである。

結局、法律を作った人間、法律を行使する人間社会の組織が「神」となり、本来、本当の神しか関与できないはずの人の心をもてあそぶ。偽物の神である政治家・役人、警察官や裁判官という人間が、ほんらい神しか知り得ない人の心を自分たちの好き勝手にする。


○ 知識・情報を伝えるための道具が数学であるならば、心を伝えるための最古の道具が文学である。

細かな模写 リアリティ
○ 御神体の中で、三葉の口?酒を飲む場面。
酒瓶のふたを開けるとき、その下には妹の口?酒の瓶が置いてある。


○ 自転車で道路を走る三葉。
それを、上空50メートルくらいからカメラが追っていく、という構図になっている。
このとき、三葉が走る道路が、所々舗装されている場所がある。
きれいな一本の道ではなく、道路のくぼみや轍(わだち)、補習工事したあとがわかるように、所々うっすらと縞模様になっている。
映画の冒頭、歩く三葉を自転車で追うテッシーとさやかの場面も同じように、リアリティのある道路になっている。

 
○毎朝、四葉が三葉の部屋に来て、「ごはん。早く来ない!」と言って、勢いよく障子を閉める。
バンッと閉まった障子は、勢いが強すぎた反動で数センチ開いて止まる。

○新幹線の扉が閉まるシーン
ホームに電車が入ってくるときに点滅する、ホームの下にある点滅灯(警告ランプ ?)が、ちゃんと点滅している。


2016年11月10日(木)

○ 日本人の幸福とは
どこまで自分の過去を思い出すことができるか、にある。
縄文人時代を越えて、「何億、何光年」分の記憶を一本の糸を頼りに辿る。

物と心の一致
→ 集中せよ

○ 「君の名」を探して
日本人とはなにか

○ 「君の名は。」と人形浄瑠璃(曽根崎心中、心中天網島)
「一生でも何生でも生き抜いて行こう」
生と死
(日本人なら)来世で再び会えるという考え方

○ 日本人にはテーマ曲(テーマソング)がある
「君が代」
「君の名は。」

大陸人(中・韓・台灣人)には共通する心がない。

混血だから。数十・数百の血が混ざり合っているから。

大陸人(中・韓・台灣人)は感性がバラバラなのだ。

前世は豚で、来世は犬になるかもしれない大陸人(中・韓・台灣人)。

血が薄いからしかたがない。

○ 苦しくて死にそうなときにこそ、真実が見える。
数万年の心の歴史への道がある。

○ 少しでも来世につなげる生き方
組紐を組むように、来世への手がかり、標(しるし、気持ちを表すもの)を編み込んでおく。
手がかり、きっかけ、トリガーになる名前、評判、人の評価。
悪名もまた、来世への土産、組紐の一部。
コソコソ生きていると、目立たない。
神に見てもらえる生き方でなければ、存在したことにはならない。


○ 日本人は自然を見るだけでなく、これと一体化できる。
だから、金がなくても人間社会で作られた地位や肩書がなくても、人生を楽しめる


○ 組紐
三年前に誰かからもらった。
それをくれた人は、三年どころか何億年、何万光年昔の前世で出会った人ではなかったのか。
そして、日本人は必ずもう一度、或いは何度でもその人と出会うことができる。
日本人は、その人生におけるすべての出会いを肯定していれば、次の世でも、再びその人に会うことができる。


○ 日本人になるために(縄文人の記憶を思い出すために)
自分の「組紐」を見つける。
過去につながる目印・紋章・絆・きっかけ・糸口・記憶を象徴する物や出来事、言葉や文章、歌や詩。
日本人は、沢山の血が混ざり合った大陸人(中国・韓国・台灣人)とちがい、一本の糸で過去とつながっているから、数万年の過去の記憶を必ず思い出すことができる。
私の場合は、芥川龍之介の小説や大学日本拳法のブログ、そして、毎日夕陽を眺めることで自分が縄文人であることに気づいた。

○「 芸術の力を持って現実に立ち向かう」しかない
ヒッチコックの映画「殺人」で、ある殺人事件の冤罪を究明しようとする主人公は、その非常に困難な事件に対する決意を述べる際にこう言う。
まさに「君の名は。」のテーマと同じことを言っている。
即ち、人間の力で、神の定めた運命を変えることができるのだ、という。


○ この映画を見た外国人は、「面白かったね。」「絵がきれいだった、音楽がよかったね」と、1時間のドラマを楽しんだことだろう。
しかし、私たち日本人にとって、この映画の物語は単なるお話ではないし、他人ごとではない。
さあ、私たちも、主人公瀧君や三葉と同じように、自分探しの旅に出かけよう。
私たち日本人には、それができるのだから。

 

2016年11月09日(水)

○ 雨の効果を教えたのは黒澤明
映画「羅生門」で見せた「雨」の力。
墨で色をつけた水をホースで大量に撒いて降らせた雨は、画面に奥行きを与え、立体的な映像にする。

殺人が起きたのは、ギラギラと太陽が照りつけるある夏の日。
そして、その事件について、殺人を目撃した木こりと坊主、通りがかりの男が羅生門の下で話をする場面は大雨である。

晴と雨降り
光と陰
明と暗
ここに現実がある。
映画に雨を降らせると、映画という架空の物語に現実味が増す。

新海誠の映画「君の名は。」では、あの汚い東京の街がこんなにも魅力的な世界に変身してしまった。印象派の画家たちによって、あの汚いパリの街があんなにもロマンチックな街になったように。

しかも、「君の名は。」の場合、光と影のコントラストが非常に精巧に描かれているために、非常に説得力がある。

つまり、心ゆたかな人が見れば、汚い街も美しくなってしまう、ということなのか。

漫画家の水木しげるの描いた東京の街は、同じように細部まで精密に模写されているが、「君の名は。」のロマンチックさと違い、どこからかネズミ男が出てきそうな、面妖な街になっている。

 

 

 2016年11月08日(火)

○ 「君の名は。」と太平洋戦争時の日本
日本の官僚や政治家たちが、世界各国の歓心を買おうと、子供じみたばらまき外交をやっている間に、お宅とかバカにされることの多いコンピューターギークたち、アニメーター関連の若者たちが、世界中から絶賛され、喜んでお金を払ってもらえる映画を作っている。

「エリート」が金を使いまくり、「底辺」で汗水流して頑張る一般人の若者がお金をクリエトしている。

マッカーサーが感激したように、日本の民間人出身の兵隊たちはみな優秀で勇敢だった。
しかし、大日本帝国の官僚や職業軍人といった「エリート」は、自分の保身のことばかり考えているから、ドイツやアメリカの役人・将校・将軍に比べ(精神的には)圧倒的に劣っていた。
本来、上の階級に昇るほどにその責任が重くなるはずなのに、大日本帝国のエリートたちは自分の部下が多くなれば、それは自分の権力が大きくなることであると錯覚していた。責任の重さよりも権力の大きさに酔いしれていたのである。

だから、日本は幾ら一兵卒達が優秀でいくら頑張っても、上のエリートがバカだから、戦闘には勝っても戦争には負けた。民間企業の若者たちがいくら頑張っても、社長がバカでは会社は潰れる。
「指揮官が悪ければ部隊は全滅する」と、成績不振の責任を取り監督を辞任した、あるプロ野球チームの監督の名言は昔も今も、日本の国家にそのまま当てはまる。

 

 

○ この映画は外国人にとってはファンタジーだが、日本人にとっては自分(たち)の身につまされる実話である。

日本人の日本人による日本人の為の物語。

 

○ 映画「君の名は。」の意味
苗字よりも名前。

自分の名前を大切に。

この映画の主題歌に「心が身体を追い越してきたんだよ」という歌詞があるように、名前以上に心に刻まれた記憶が大切。

幸い、私たち日本人(縄文人)には5万年という気の遠くなるような長い期間の記憶がある。

肉体が滅んでも、心に記憶が刻まれている。

そして、私たち日本人は単一民族という一本の絆で結ばれている。

数百という血が混ざり合った大陸の人間に比べ、記憶の糸を辿りやすい。
日本人だけで暮らしてきた生活の中で、紡ぎ、作り込められた沢山の思い出。

その膨大な記憶は日本人(縄文人)の血という一本の糸(絆)で結ばれているのです。
だから、たとえ相手の名前を忘れてしまっても、私たち日本人は日本人同士、互いに何かを感じることで、再会できる。

 

○ 宗教としての「君の名は。」
宗教とは、自分たちだけで自己満足して安心する、という一面がある。
「君の名は。」という映画を観た多くの日本人は、「やっぱり、私たち日本人なんだね」という暗黙の諒解を深く実感して映画館を出てくる。

 

○ 神社の鳥居
「二の法則 → 和の精神」という日本人の最も顕著な属性の象徴である鳥居こそ、この映画のエンブレム(シンボルマーク)である。
鳥居の後に、新宿警察署とその脇を通るモノレールの軌道の場面が出てくるが、これはモチーフ的にはかなり似ている。
歌詞
「言ったろう。二人なら。笑って返り討ちにできるだろう。」

 

○ 現代の浮世絵
リアリティと漫画
超リアリティな作画でありながら、極めてロマンチックな風味を持つ。
北斎や広重ら、江戸時代の浮世絵師たちの技法そのもの。
単なる技術ではない。
日本人の豊かな感性なくしては絶対に描けない美しい、存在感のある映像である。

広重の画とは、日本人にとって、いつか見た風景であるように、「君の名は。」の街や田舎の景色は、日本人にとってその数万年という長い期間の内に誰でもが一度は見た懐かしい(心と景色が一体化した)情景なのだ。

 

○ 細かな模写 リアリティ
冒頭、三葉が朝、起きてから冷蔵庫を開けるシーン。
右手で扉を開け、中を覗く前に左手で髪をかき上げる。

ツカサからのメールを見ようと、スマホに手を伸ばす。
その時、手の影がスマホを覆う。

昼休み、学校の屋上のバスケット・コートで話をする3人。
高木とツカサは昼飯を食いながら。

「学校へ来る途中で道に迷っただと ?」
と、不思議がる高木たちに、瀧は思わず「わたし」と言ってしまう。
すると、聞き役である高木とツカサのうち、高木だけが「わたし ?」と瀧に聞き返す。
あわてて瀧が「わたくし」と言いなおすと、今度は高木とツカサ両人が「うん ?」と揃って不審がる。
次に「ぼく」と言うが、両人は「あー ?」と身を乗り出して瀧の態度を怪しむ。
最後に、瀧が「オレ」と言いなおすことで、ようやく両人は「うん」と頷いて納得する、という場面。

瀧の一回目の「わたし」に対しては、高木だけが反応し、ツカサは飯を食っている。
ところが、2回目の「わたくし」や3回目の「ぼく」、そして最後の「オレ」に対しては、二人同時に首をかしげたり頷いたりする。
他人に無関心という、都会子であるツカサの性格が良く出ていると同時に、無関心からだんだんと身を乗り出して、関心の度合いを強めていく瀧の親友達のこころがうまく表現されている。

弁当を忘れた瀧に、高木とツカサが自分たちの弁当を分け合い「玉子サンド」を作り、それを瀧に渡す。この間、バスケットボールがゴールに入るシーンになる。
対して意味のない映像を省いて「間延び」をなくすと同時に、3人の心が一致したことを象徴させている。

最後に近いシーン。
瀧と三葉が朝、別々の電車の窓からお互いを見つけて見つめ合う。
その時、彼らの乗る車両の間に別の電車が入ってきて、三葉を見つめる瀧の視線を遮る。
この、第三の電車が間に割り込んでくる直前、三葉が瞬きをする。
この細かさ。リアリティ。

朝の通学時。
三葉と四葉が一緒に家を出る。
三葉が三葉である時には、一歩先に玄関を出た四葉が玄関の前の三和土を右へ曲がって階段を降りる時、三葉もそのまま続いて右へ向きを変えて、階段を降りようとする。

しかし、瀧が三葉になっている時には、この三和土の上で三葉は一瞬立ち止まって、そこから見える美しい景色を見るのだ。

○ 二人の女の子が日向から日陰に移動しながら、「雇用はないし」「嫁は来ないし」と話し合っているとき、それぞれの顔に影が差す。
二人が歩きながら話している、ということを影の移動で強調していると同時に、セリフを耳で聞くだけではなく、「目でセリフを聞いている」ような、立体感を体験することができる。


○ 日本人は運命と戦う
「君の名は。」という映画で主人公二人が戦うのは、人や社会ではなく運命。
この二人に限ったことではない。
日本人は運命と戦い続けてきた。

戦いといって、人間同士の争いや個人対社会の確執、国家間の戦争ばかりではない。

運命と戦うことができるのは、日本人だけなのだ。

 

○ 「時間」と「結び」
時間を神様のなせる業と考える。
つまり、神様を身近なものに感じているのが日本人なのである。

○ たかが漫画じゃないか
いったい、どうして、こんなにも心が惹かれるのか。
何度でも見返してしまうのか。

自分が死ぬほどたくさん、こういう「! 」(ハッとした瞬間)を経験してきているから。
この映画の主人公だけでなく、わたし自身が彼ら主人公たちとまったく同じ状況にいたことがある、もしくは、今まさにこの瞬間、いるのではないのか。

何か、私という日本人の心の根底に響くものがある。
強く訴えるものがある。



君の前前前世から僕は 君を探しはじめたよ
そのぶきっちょな笑い方をめがけて やってきたんだよ
君が全然全部なくなって チリヂリになったって
もう迷わない また1から探しはじめるさ
むしろ0から また宇宙をはじめてみようか

そうだ、三葉は死んでいる。
四葉も、おばあちゃんも、てっしゅうも、さやかも。
隕石の落下によって、一瞬にしてかれら糸守町の住民の多くが消えてしまった。

しかし、その次の世では、この歴史を回避するために、糸守町とまったく離れた東京に住む一人の男子高校生が彼女や町の人々を救うために登場した。

アメリカ映画では、スーパーマンとか超人が出てくる、日本では、どこにでもいるごく普通の高校生がこのとてつもない大きな救出劇の立役者なのだ。

そうだ。瀧君はスーパーマンやバットマンやキャプテンアメリカに匹敵するほどの人助けをした。
しかも、それは人造人間や偶然ではなく、運命の力によって歴史に登場し、運命の導きによって運命を変えた。
まさに、ここが日本的なのだ。

日本では全員が主人公
スーパースターが要らない、もともと存在する必要がない。
数万年のながきにわたって日本人は血が平準化されている。良くこなれている。完全に混ざり合っている。アメリカのようにあちこちの人種が集まり、まだ300年くらいしか経っていない国とは違うのだ。そういう国や地域では、スーパースターのような超能力を持った超人でなければヒーローになれない。しかし、日本では全員にヒーローの資格がある。
皆、共通の価値観、感性、思想を持っているから。
血の中にまったく同じ属性を持ちながら、ひとり一人の個性が強烈に発揮される。
ひとり一人の個性が強烈に発揮されながら、根底にはまったく同じ属性を持った日本民族(縄文人)の血が流れている。

① 物語を作るために、空想やまがい物のヒーローではない。
運命の必然性から生まれ、運命のままに運命を変えていく。
これが日本的なるヒーローである。

② 超人ではない
ごく普通の高校生や社会人が歴史を変えるような働きをする。

それを生み出す人々も、東京大学でもないし、東京芸術大学でもない。
国立音楽大学でもない。
むしろ、こういう映画を生み出した主役たちに対する脇役こそ、有名大学出身者ではないのか。
いい発想や、日本人らしいごく自然な発想や運命に素直な発想でありながら、個人の資質を生かした自由な発想ができるのは、ごく普通の日本縄文人なのだ。


外国の考え方や知識や情報で頭が一杯のインテリとは、むしろ、言われたことを忠実に実行する作業の方が向いているのだろう。

 

○ 私たち日本人は運命を見て生きている。
神と一体化しながら毎日を生きている。
私たちの人生は運命なのだ。

芥川龍之介「英雄の器」
客家は目の前の金や地位や権力を得るために戦う。
しかし、日本人は運命と戦うのだ。

 

○ 日本人のプロトコール
「行ってきまーす」
「はい、行っといで」

「ただいま」
「おかえり」

 

○ 縄文人の証明
① 日本語
数万年という長い時間に培われた縄文人の豊かな心を表現するには日本語しかない。

これから1000年かけて世界中に分散していく日本人の濃い血は、一旦薄まって、その後、逆に濃縮をし始める。
そして、その頃、誰も見向きもしない日本列島という極東の孤島に、何かに惹かれるようにして、日本人の濃い血を持つ人々が集まり始める。
神は喜び、大きな噴火や大地震、津波や台風の後に、それでもそこに残った人々のために豊かな漁場、木の実や穀物、鹿や猪、鳥や虫を住まわせる。
日本人のための日本の大地と空間、そして時間が提供されるのである。

 

② 物と心の一体化

物や動物、植物や昆虫、風や雲、太陽の光、そして、毎日の食べ物。
それら自分を取り巻くものたちと、自分の心の交流。

道具を使いこなせるようになるとは、道具に慣れる、精通する、仲よくなるということであり、即ち、心が通じ合うということ。毎日使うまな板や包丁、鍋やヤカン、鉛筆や消しゴム。はじめは手に馴染まないので、少し違和感があるが、使っているうちに、違和感はなくなり、終いには自分の身体と一体化する。

針供養や茶筅供養などといい、日本人は道具を大切にする。道具を身体の一部に感じるまで、使いこなそうとする。
コンピューターというハードウェアにしても、優れた画像・映像のソフトウェアにしても、日本人ほどこれを使いこなせる人間は、おそらくいないだろう。
だから、日本人としての優れた感性を持つ新海誠のような人がこれらいい道具を使うと、とんでもなく素晴らしい映画ができるのである。

 

○ この映画が受ける理由

① 誰でも夢を見る。
この「誰でも」体験。
しかも、日本人の夢とは、日本人の自分が前世や前前世、もしくは何世も前の出来事を継続して引きずっている。
大陸人(中・韓・台灣人)や欧米人たちは、その出自がバラバラであり、何千・何万という血が完全に混ざり合っていないがために、それぞれの民族の血に含まれた彼らの過去の出来事が入り乱れて夢となる。
だから、フロイトやユングのような世界となる。つまり、画家のダリの絵に象徴される支離滅裂な精神である。
夢で判断しようとすれば、彼ら混血人たちは日本人とちがい、連綿と続いた統一した記憶などない。ジキル博士とハイド氏のように、混ざり合った血の記憶が、様々なシチュエイションに反応して記憶の中に現れ、現実の生活に影響を及ぼす。
彼ら混血人たちにとって、無数とも言える異民族の人種混合による精神分裂、精神の混乱による不安が常につきまとう。
彼らが大きな声を出して会話をしなければならないのは、そうやって、自分の中にいる雑多な血の叫びを押さえるために、相手と議論するというよりも、自分自身の中で人種の整合性を取ろうとするための戦いなのだ。

 

②   結び

もの(者・物)と心の完全なる同期、一体化。これこそ、日本人の思想であり理想なのである。日本人の人生とはこの完成のためにある。

飲み物や食べ物が人の身体に入り、その人の魂と結びつくこと。
これも「結び」

誰にでも絶対に忘れてはならない人がいる。
もし、現世であなたがその人に会うことができなくても、きっと、来世で、そのまた次の来世で会うことができる。

何が日本人に受けたのか ?
縄文人の心に響く要素が盛り込まれている。

○ 大自然と都会が描かれている
景色 美しい大自然と、本来美しくないはずの都会を、新海監督は美しく描くことで観客の心を救っている。

○ 人(の心) → 都会人と田舎の人が描かれている。日本の都会人は外国人とはちがう。
都会にいる外国人ヤクザ風の二人。

○ 動物
都会の犬(レストランの華奢でかわいいプードル)
田舎の犬(牧羊犬のような逞しくて元気がいい)

都会のカラスと御神体に奉納しに行った時の鳥たちのちがい。
都会のカラスはちょっと不吉、悪いことが起こる。 → デートの破綻。
田舎の鳥たちは希望の象徴のような。

○ 個人と集団
田舎の大衆と都会の大衆

○ 石垣、石畳の田舎の街並み
コンクリート、アスファルトの道路と白い壁のビル。東京。

○ 水
湖、川の水、せせらぎ
水や木、森や谷、山、川、湖。犬や鳥、小さな虫たちも見落としていない。
大自然の要素。

○ 人間の移動手段
歩く、走る、自転車、バイク、車、バス、電車、新幹線、飛行機。

○ 光
太陽、月、星、街路灯、家の光、車やバイクのヘッドライト、メガネの反射光、
都会の街の光たちと、田舎の柔らかい光たち。
雨にぬれた道。
田舎の道と都会の道路。

○ マスコミ・学者の無責任さ
結局、大衆を助けるのは大衆自身でしかない。
権威や権力は傍観者でしかない。
実際に被害を受けるのは大衆。
公務員たちは騒ぎが大きくなることを恐れ、情報収集力ばかりで、なんの想像力も創造力も、積極性も前向きな行動も発揮しない。

○ 光と影
朝と昼間、夜

○ 季節感、時間の推移を表現している。
雨と雪
太陽の暑さ。

雲の色と形

○ 色々な色
温かみのある色や光、冷たい色と光。

○ 探す
人間はいつでも何かを誰かをどこかを探している。

○ 出会い
本当は私たちは探しているものを毎日出会っている。
ただ、それに気がつかないだけなのだ。
どうすれば気がつくのか。
思い出すこと。
暗記した情報ではなく、自分自身の記憶を思い出すのだ。
頭ではなく心で思い出す訓練を。
心で感じることができるように。


○ 色々な人間
体育会系
インテリ

○ 男も女も戦いの精神

 

○ 民間人の力

新海氏は、観客を励ますような、見終わったあとに気持ちよく劇場を出てもらえる
作品を作りたくなったところに、ちょうど東宝の話が決まったといい、自身だけでなくキャラクターデザインの田中将賀、作画監督の安藤雅司、音楽のRADWIMPS、主演の神木隆之介についても「本当に、絶妙なタイミングによってつくらせてもらえた映画」と語っている。

URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%81%AF%E3%80%82

どう励ますのか。
ああ、俺たち・私たちは日本人なんだなぁー、と一体感が持てる。
自分の存在感が、日本人として強烈に実感できる。
日本人は、日本人だけの時間と空間とに一体化して生きている、という安心感が湧いてくる。

まさに、大正時代、政治家や学者やマスコミが愚かなことをして日本を破滅へ導いていっている間に、芥川龍之介という正気の人間が、ますます正気を発揮して素晴らしい文学を書いたように。
政治家や官僚、マスコミや宗教がバカなこと、間違ったこと、汚いことをすればするほど、なんの政治的な援助もない、経済的な支援もない、権力で身を守ってくれることもない、いち民間人が、その愚かさに反比例するかのようにますます光り輝き、どんどん日本人としての素晴らしい才能を発揮する。これが「日本的民主主義」の強さ。天皇や首相なんていう、英雄など要らない。日本人全員が運命と戦う英雄なのだから。

○ 組紐

時間の流れ、人の心が交錯する。
まるで組紐のように。

三葉独りでは町を救えなかった。
瀧と二人であったからこそ、予言は成就されたのだ。

外国人にはファンタジーな物語。
日本人にとっては、現実の話なのだ。
日本人の心の糸は規則的に美しく組まれている。
だから、正しく糸を辿ることで、私たち日本人は自分たちの過去にたどり着くことができる。
そして、正しくたどり着いた過去は、表になったり裏になったり行ったり還ったりする美しい組紐の文様のように、メビウスの輪のように反転しながら、未来につながっているのだ。

○ 宮本武蔵の教え 「敵になる」
敵を味方にする。
日本のアニメ力によって、外国人を味方にしてしまう。
日本の役人は海外で金をばらまいて外国人の人氣を得ようとする。
日本の民間人、特にアニメ○○と呼ばれ、お宅だとかギークだとか、とかく暗くて弱い、内向的な性格と見られがちな若者たちが、外国人が逆に金を払って日本人を好きになってくれるアニメを作る。


○ いったい、どうして、こんなにも心が惹かれるのか。
自分が死ぬほどたくさん、こういう「! ハッとした瞬間」を経験してきているから。
この映画の主人公だけでなく、わたし自身が、今、彼ら主人公たちとまったく同じ状況にいたことがある、もしくは、今まさにこの瞬間、いるのではないか。
私という日本人の心の根底に響くものがある。
強く訴えるものがある。


○ 声優たちの素晴らしさ
彼らはそれぞれの役に完全に成りきっている(感情移入している)。
セリフと声、場面の3つが完全に一致し整合性を持っている。
(やはり、武蔵が剣の戦いでもっとも重要視した「場と間合いとタイミング」による勝利である)
声の抑揚、強弱、間の取り方

美しい日本語の響きも、今さらながら大きなメリットだ。
台灣の映画館でこの映画を見ると日本円で約900円だが、彼らは日本語の響き・味わい・余韻を楽しむことができない以上、この値段で妥当だろう。

○ 「君の名は。」を観て日本人になろう
(自分が日本人であるということを実感しよう)

この映画を見て満足するその最大の理由は、自分が日本人であることをしみじみと実感させてくれるということ。
映画の登場人物とほかの観客、そして自分が同じ日本人である、という一体感に浸れる。
この一体感とはつまり、先頃リオデジャネイロで行なわれたオリンピックで、日本の選手が優勝した場面で「日本万歳」と叫ぶのと同じ。この素晴らしい選手は自分と同じ日本人なんだ、という喜びである。
オリンピックの場合にはしかし、この素晴らしい選手は特別であって、俺や私が同じことができる訳ないし、と後になって思うわけだが、映画「君の名は。」の場合はそうではない。
「ああ、俺・私はまったく同じような体験をしたことがある。」と、誰でも思うことができる。

日本人はこの日本列島という地域に、ほぼ隔離された状態で数万年もひとつの民族として住み続けてきた。
海の向こうのユーラシア大陸で、何十何百という異民族同士、血が混ざり合う環境と違う。
だから、日本人は血が濃い。だから、この映画の描く、一本の目に見えない糸で人と人とが「何億年、何万光年の時空を越えて」結ばれている、という話が日本人の場合、非常に現実味を持って実感できるのである。(先頃のニュースでは、縄文人のDNAは大陸系のアジア人とはまったく違う構造をしているらしい)


○ 男と女の出会いとは運命なのか
見えない糸で結ばれているとは、運命として定まっているということであり、糸で結ばれた人以外との恋愛は運命に逆らうことであり、自然の流れに逆らうことになるのか。つまり、私たちは運命に従わなければならないのか。
それに対してこの映画はやはり明確に答えてくれている。
この映画の主人公二人は、日本人らしく、一度は死んだ人々を今度は救うために戦う。
彼らは人のと殴り合いや戦争をして戦うのではなく、運命と戦った。
神から与えられた人間としての知恵と才覚を発揮して、神が彼らに与えた運命を変えたのである。

この映画を観た後で、すっきりして映画館を出てこれる理由がここにある。
人間には運命というしがらみ(定め)があるが、自分の自覚と努力によってこれを変える(切り拓く)ことができる、ということを教えてくれているのである。


妙に懐かしさを感じる風景
大学時代、小松の家に遊びに行った。
天守閣から見た中村市の風景。




2016年11月16日(水)
○「君の名は。」と芥川龍之介
芥川の小説「尾生の信」
同じく、時間というものをテーマにしている。
私たち日本人はいつでも何かを待っている。
運命を受け入れながらも、これに抗おうとする日本人。


○自分の人生を何回もやる。
「ジョジョの奇妙な冒険」第○回
○ 広告代理店も大々的なキャンペーンのようなものもなく、ごく自然に口コミだけであっという間に1,000万人の日本人がこの映画を見たという事実は、この映画が日本人のアイデンティティに強く訴えている、という事実を証明している。
この映画を観た観客は、頭でこの映画を楽しんだのではなく、単なる面白おかしいという軽いノリでもなく、もっと根源的な魂を揺さぶられて映画館を出る。
このどうしようもない感動が口コミで伝わり、どんどん大きな輪になって広がった。
「日本人の心を思い出すことができる」という感動が、静かな波動のようにして、まさにこの映画のテーマである「日本人らしい」伝播の仕方で日本人のあいだに広まったのである。

2016年11月17日(木)

 ○ 走る
一生懸命走る日本人。
これが日本人の特性。
一生懸命の心がなければ、何億・何万光年の時空を越えられない。
陥没など大都市では必ずといってよいほど起きる。
しかし、それを7日間で復旧させたというのは、技術力以上に、現場の日本人たちの「頑張り、必死さ」です。

台灣人の若者など、才能・能力はあっても、日本人のこの「一生懸命」の心が根本的にないから、何をやっても「美しくない」。

○ 不撓不屈
糸守町町長の部屋に掲げてある額に書かれた言葉。
この映画のテーマでもある。
零戦パイロットであった故坂井三郎氏の座右の銘でもありました。
氏は「自分と共に出撃した部下を一人も死なせなかった」ことに、最大の満足感と最高の誇りを持たれておられました。敵機を何機撃墜したか、ではありません。
また、どうやって敵(機)を殺すかよりも、どうすれば死なないのか、どう殺し合いという極限状態で生き残るか、を優先されていました。
これは宮本武蔵が60数度の決闘に明け暮れたあとの晩年、死までの30年間に追求した「戦いの思想」であり、私が坂井氏をして「空の宮本武蔵」とお呼びする所以です。
糸守の町長もまた、ビルやダム作りで日本の美しい自然を破壊せず(映画の中で、災害時のマスコミの記事「たびたび消えたダム建設計画」)、住民を一人も災害で死なせないことに専心したという点で、日本人らしい偉大さを発揮した、といえるだろう。


○ 現代の浮世絵師たち
あんなに汚い東京の街をこんなにも美しく描いてくれた、この映画のクリエーターたちに感謝。
心が豊かで美しいから、見たものをあそこまで美しくロマンチックに描くことができるのでしょう。

○ ラーメン屋の親父の方が、(下手な)インテリや「コメンテーター」というバカ芸人よりも、よほどモノの価値が分かる。
日本人に成りきっている。

2016年11月18日(金)
○ 宮崎アニメと
欧米のマスコミ(の一部)が、この映画をして宮崎駿のアニメと比べて劣るという評価するのは、この映画が政治的な意味合いを持っていない、という点にある。そこが「面白くない」というのだ。
たとえば「千」では、二人の姉妹が世界を支配しているとか、はじめはなんでも安く(タダで)提供してくれる良い神様だと思っていたのが、実は世界中のモノを食い尽くす化け物であったとか、現在の国際社会を寓意している。欧米人のような、しかも映画評論家のような「大人」には、そういう「ひねり」がないと価値がないと見る。
更に、血の混ざり合った人種、とくにそのインテリには、頭でも心でも、とうてい「君の名は。」は受け入れることができない。ここ2千年程度の歴史と知識をベースに生きている人間に、「何億・何万光年の心の歴史」など理解できるわけがない。
ゲルマン民族とスペインのバスク人くらいが、この映画に懐かしさと郷愁を覚えるかもしれないが。
「「君の名は。」とは日本人の自己満足映画」という名誉。
日本人の約一割、1千万人が心から感動し、自分たちが日本人であることを実感した、という事実で十分だ。
「日本人の日本人による日本人のための日本文化映画」なのだから。

c 2016 平栗雅人