映画監督アルフレッド・ヒッチコック(英国出身・米国人)は、縄文人ではありませんが、私たち縄文人と同じように、「自由と若々しさ」を大切にした人でした。

目次

目次 1

「ヒッチコック知ってる ?」 2

序文 2

はじめに 3

ヒッチコックというミステリー 4

ヒッチコックの映像技術 5

ヒッチコックはどこにいる ? 6

ヒッチコック・プロファイル 7

ヒッチコックの犯罪 9

ヒッチコックのアリバイ(不在証明) 12

ヒッチコックの見た真実 13

ヒッチコックの見た恐怖 17

ヒッチコックの戦い 20

ジョンブル・ヒッチコックの見た光と闇 21

理想 21

戦争 22

民主主義 23

ジョンブル 質実剛健・キリスト教徒・ユーモア 23

権威・権力 26

28

エリートの犯罪 29

銀行 31

マスコミ 31

32

男と女 33

テロ 33

ヒッチコックについて 34

コラム ヒッチコック 「マクガフィン」 34

ヒッチコック年譜 36

あとがき 39

ヒッチコックの社会学 ① 41

「かくて日本は戦争に破れた」ヒッチコック映画に見る日本とイギリスの民度の差 41

ヒッチコックの社会学② 42

「かくて日本は戦争に破れた」ヒッチコック映画に見る日本とイギリスの民度の差 42

ヒッチコックの社会学③ 43

「ヒッチコックと黒澤明」 43

「羅生門」1950年 真実とはなにか 44

 

       「ヒッチコック知ってる ?」

 

 

         (ヒッチコックというミステリー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                   2014年3月10日

                                                              平栗雅人

 

 

 

                                     初版 2014年3月10日  V 1.1

                      2014年 5月01日 V2.1

 

 

単語数 47,801

 

序文

 あなたはヒッチコックを知っている。

 彼が監督した「サイコ(19○○年)」や「鳥」「北北西に進路をとれ」といったサスペンス映画の数々は、数十年たった今でも有名だ。

 

 しかし、それは

 

 

 を観て、「ヒッチコックの映画とは、ただのサスペンスではないはずだ。とか「ヒッチコックの映画は、いったいなにを云おうとしているのだろう ?」と疑問を持つ人であれば、この本に書かれた「ヒッチコック映画の観方」からヒントを得ることで、もう一度彼の映画を観なおしてみようという気になるでしょう

 

 私自身は、ヒッチコックこの本に書かれているような意図で映画を撮っていたと信じていますが、映画というものは「こう観なければならない」という決まりなどないまた、色々な観方ができるほどその映画の価値があるという証明に、と考えれば、私のようなヒッチコック映画の観方にも、何がしかの意義があるでしょう。

 

 

ヒッチコックは旧約聖書における神と、新約聖書におけるイエス・キリストを映画の中で。彼流のスタイルで描いた。

 

はじめに

  “サスペンス映画の神様” “スリラーの巨匠” “映像の魔術師” “プロットの天才”と称賛された映画監督アルフレッド・ヒッチコック。

 

 だが、そんな称号は料理のを褒めている」にすぎない。

 ヒッチコックが映画という料理に込めた隠し味(映画で言いたかったこと)を味わなければ、彼の映画を本当に楽しんだとは言えないだろう

 

 ヒッチコックは「私の映画にはテーマだとかメッセージなどない」と述べたそうが、これだ。

 ヒッチコックはたしかに、アッと驚くようなカメラ技術や奇想天外なストーリー、凝ったプロットによって観客を楽しませたが、それらサスペンスミステリー手法は、映画の中に隠された真実を隠すための、トロイの木馬しかない

 

  彼はほんの数秒ではあるが、自分の映画に必ず自分が出演する(カメオ出演)ことでも有名だった。映画の主人公たちが街ですれ違う通行人、といったチョイ役で(時にはシルエットだけで出演)

 だが、彼はシルエットだけでなく、自分の実像までも映画に出演させていた

 

  ヒッチコックの映画とは彼の大好物だった料理スフレのようだ。

 サスペンス仕立てという映画の調理法は共通でも、中の具はであったり魚介類だったり、デザート用には果物いろいろな具が詰まっている。サスペンスやスリラーという皮の中に、誘拐や殺人事件よりもずっと恐ろしい恐怖が詰め込まれている

 

  あの冷淡で飄々とした容貌からは想像できないヒッチコックが見た、本当の恐怖とは。

 私たちは彼が映画の中に残してくれた手がかりによって、それを知ることができる。 そして、数十年前、ヒッチコックが見た恐怖は、現代においてますます、私たちの身近なものになってきているのです

 

                                                    2014年3月10日 平栗雅人

 

 

  英国出身の映画監督・映画制作者アルフレッド・ヒッチコック80年の生涯(1899年1980年)で53本の映画を作った。

 彼のサスペンス仕立ての映画は、映画の撮影技法や編集の手法だけでなく、個性的な登場人物やプロットといった点でも、スターウォーズインディ・ジョーンズといった現代映画に大きな影響を与えている。

 アカデミー作品賞受賞が1アカデミー監督賞にノミネートが5回。1980年にはエリザベス2世からナイトの称号を受けている

 

ヒッチコックというミステリー

  ヒッチコックの評価

 スリラー映画の巨匠で『サスペンスの神様』と呼ばれるにふさわしい、20世紀を代表する映画監督。

  2001年にAFI(American Film Institute  全米映画協会) が作成したスリルを感じる映画ベスト100ではスピルバーグの6本より3本多い9本の映画が選出され、ヒッチコックがトップになった。ちなみに1位は彼の代表作『サイコ』。

 

 作品の特徴として、現実ではありえない「ドラマチックなシチュエーション」が連続で起こる。

 たとえば、アメリカのラシュモア山という、歴代大統領の顔が岩に刻まれた巨大なモニュメントの断崖絶壁や、ニューヨークにある自由の女神像のてっぺんで、主人公と殺人犯が追いかけっこをしたり、後楽園球場の100倍あるような広大な敷地にある豪邸の主人が奥さんを殺す。それが一瞬にして自殺と入れ代わったり。主人公が車ごと崖から落とされそうになったり、飛行機に襲われたり(にせ)警官、偽探偵に命を狙われたり

 

 ストーリー的(時間軸での物語)にもプロット的(因果関係による物語)にも、現実世界では起こり得ないような「突拍子もないこと」が連続して起こる。

そして、そのありえない偶然の連続が強烈な緊張感を生み、かえって観客を映画に没頭させる。これが彼の映画の特徴である。(Wikipedia)

 

 映画はおもしろくなければならない

  ヒッチコックはこう言ったそうです。「ある種の映画監督たちは人生の断面を映画に撮る。はケーキの断面を映画に撮る。と。

 つまり、ヒッチコックの映画とは、観客を楽しませるための作り物の映画であって、人生や社会について何かを言おうとする映画ではない、と。

 

 こうも言ったそうです。

「たかが映画じゃないか」

「サプライズよりサスペンス」

「イメージは映るのではなく作るものだ」

「色彩や線はない。あるのは光と影だけだ」

「画面はエモーション(感情)で埋めなければならない」

ファンタジー(幻想)こそ私が扱っている分野だ。私は現実の一面を扱うようなことはしない

私は型にはまった映画監督だ。もし私が『シンデレラ』を撮ったとしても、観客はすぐに馬車の中に死体を探すだろう」

セリフというのは単にサウンドのひとつにすぎない。」

 

 これらヒッチコックの言葉から、彼が「真実などどうでもよい。映画はおもしろくなければならない」という信念で映画を作っていたということがわかります。徹底して観客を楽しませるというプロ根性が、とんでもないストーリー、強烈なスリルやサスペンスとなって、彼の映画を盛り上げたのです。

 

 

「ヒッチコックというミステリー」

 しかし、「たかが映画じゃないか」という彼の言葉。その「軽さ」の裏に、かえって私は彼の映画への思い入れを感じるのです。

 

 ヒッチコックという映画監督は、じつは非常に大切なことを映画のなかで表現していたのではなかったか。それはまるで、彼の映画「バルカン超特急」(1938年)のなかで、ある歌のなかに非常に重要な国家機密情報を盛り込む、というサスペンス・ストーリーと同じように。

 

 

ヒッチコックの映像技術

 「ヒッチコックの作品は非常に高度な映画技法を駆使して作られており、際立った演出手腕を持った映画監督と言える。その映像テクニックは技術本位ではなくあくまで演出上必要であるからこそ使われ、結果的に絶大な効果を上げている。特にスティーブン・スピルバーグはヒッチコックの演出テクニックを生かした演出を行っているのが有名である(キネマ旬報にシーンの比較の記事が出た)(Wikipedia)

 

 「サスペンス溢れる展開と、その合間にあるイギリス的なドライなブラック・ユーモアが見事に調和した、息も詰まるようなスリリングなスリラーやミステリーを得意としたヒッチコックは、 脚本や絵コンテの段階で主要な場面を設定し、それぞれの場面にセリフ、アクション、キャメラの位置などを細かく指定して、撮影と同時に編集を行う事によって製作者やスタジオからの干渉を防いで自分の思い通りの映画を作り上げてきた。

 

 「サスペンスの巨匠、アルフレッド・ヒッチコック。彼は、定型の撮影方法にとらわれない斬新なアイディアを豊富に用いて、様々な名作を完成させた。役者の演技力やセリフに頼らず、それらを小道具のように用いて、純粋に映画的手法のみで登場人物の気持ちや感情を伝えようとした。たとえ役者の表情が同じでも、次に繋ぐショットの違いのみで、登場人物の感情は異なって見えるからだ

 

 ヒッチコックは、観客を登場人物に感情移入させるため、例えば主人公が列車に乗っている場面では、決してカメラは外から列車を映さない。カメラは常に、主人公と共に列車の中にいる。その代表例が、救命艇裏窓だ。救命艇でカメラは、登場人物たちの乗る脱出ボートを、俯瞰視点や遠景で捉えることはない。裏窓では、すべて、脚を怪我して歩けない主人公の視点から物事を捉えている。

 

 そんなヒッチコックが映画作りにおいて大切だと考えているのは、「サプライズ」ではなく、「サスペンス」だという。その違いは、予め観客に情報を与えているか否かというところにある。

 ヒッチコック自身が用いた例を挙げれば、二人の男が座って話していると、突如としてテーブルの下の爆弾が爆発する。これが「サプライズ」であるが、テーブルの下に爆弾があるぞということを予め観客が知らされていれば、何気ない男達の会話の間にも「サスペンス」が生まれることとなる。

 

 分かりやすい例が、めまい知りすぎていた男第三逃亡者などの映画である。

 めまい原作小説では、この女性の正体は最後の最後に明かされるのだが、ヒッチコックは最初から観客にその正体を教えてしまう。まさに「サプライズ」を「サスペンス」に変えたわけだ。

 普通の監督なら、原作通り、衝撃の結末として、その正体最後まで隠しておくだろう。だがそうしてしまうと、この映画は途中から最後までが退屈なものになってしまうとヒッチコックは言う。

 正体を先に知らされるからこそ、主人公は気づけるのか、正体が判明した時どうなるのか、と観客はドキドキする

 

 最近の映画では、高まる音楽や激しいカメラの動きなどによって、サスペンスを盛り上げようとするが、そういったものは、見ていて度胆を抜かれることはあっても、心底ハラハラドキドキするという高ぶりは味わえない。

 

 

ヒッチコック・プロファイル

 ヒッチコックの犯罪」とはなにか。

 それを見る前に、彼がどういう人間なのかを知っておく必要がある。

 といって、彼の学歴や職業経歴などではなく、彼の精神的バックグラウンド、「人となり」です。

 

私生活のヒッチコック

 夫人によると、ヒッチコックの私生活は非常に規則正しく、作風からは想像できないが、予期せぬ出来事といったことは大嫌いだったらしい。

 彼はスフレが好物だったが、出来上がりを気にするあまり、焼いている間オーブンを開けてしまう。だが途中でオーブンを開ければ、熱が逃げてスフレがしぼんでしまう。夫人はれに困り、扉が透明で中が確認できるタイプのオーブンを購入するまで、スフレを作ることを禁じたという。

 また鶏肉が好物であり夫人は「だから『鳥』を作ったのではないか」と推理していた。(Wikipedia)

 

① 悪ガキ・ヒッチコック

 非常に頭のいい人であったようだが、単なるインテリではなかった。

また、キリスト教徒だけあって、徴税請負人(公務員)や銀行という、金を集めたり、金で金を生み出すことを生業にする人間・組織を嫌っていた。

工場労働者、タクシーやトラックの運ちゃん、サーカスの芸人といった、ブルーカラー(肉体を使って汗水流して働く人間)に好意を持っていた。公務員・銀行家・大学教授といったインテリを嫌っていた(軽蔑していた)ようだ。

 

 

米映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ(1984年)で、1930年代のニューヨークの悪ガキたちが描かれているが、ロンドンの下町生まれのヒッチコックはああいう感じの、昔はどこにでもいた悪ガキ連中にかこまれていた。(もちろん、ヒッチコックが犯罪者だったわけではない)

 少年ヒッチコックがいた世界には、ケンカ、殺人、詐欺や泥棒という事件が日常茶飯事で起こっていた。だからヒッチコックには、社会の裏表がよくわかる。人間の心(の裏表)をよく知っていた。

 そして、ヒッチコックは子供のような純粋な目で、人と社会を見ることができた。

 

② キリスト教徒・ヒッチコック

 家がクリスチャンであり、また、学校がキリスト教系であったこともあり、ヒッチコックは敬虔なキリスト教徒だった。

 かつてのニューヨークの下町のような、危険な街で生活しながら、そういう環境とは全く逆の「神の世界」をヒッチコックは、キリスト教という宗教彼の作品はキリスト教の匂いする映画が多い。を通じて知っていた。

 汚れた人間世界と清純な神の世界。この両方を体験していた。

 

③ ジョンブル・ヒッチコック

 ヒッチコックは「ジョンブル(英国紳士)」であった。

 ジョンブルとは、牛の如くに性格は頑固な反面、非常に繊細でありプライドが高いがユーモアを忘れない。英国人気質の典型であり、「英国版サムライ」といえる。日本のサムライにユーモアの感覚はないが、多少男尊女卑の気風があるところは似ている。

 1940年、ヒッチコックは「レベッカ」でアカデミー作品賞を受賞したが、彼はこう言ったという。

あれはこの映画のプロデューサーに与えられた賞であり、ヒッチコックピクチャーとは言えない。なぜならば、この作品はユーモアが欠けている」と。

 ハリウッドに絶大な影響力を持つアメリカ人のおかげでもらえた賞であることを、英国紳士ヒッチコックのプライドが許さなかったのです。

④ 戦う男・ヒッチコック

 ヒッチコックは、有名な映画関係者の家に生まれたわけではない。家柄や学歴、コネや後ろ楯のないヒッチコックは、実力で戦うしかなかった。しかも、彼が40歳の時(1939年)、ドイツによるロンドン空襲直前に米国に移住してからは、公私ともに大変であった。

 「欧州の戦争から米国へ逃げてきた卑怯者」という目で見られていたからだ。彼はそういう世間の目を跳ね返すだけの映画を作ることで、彼の存在感を正当化する必要があった。

 また、映画制作においても、英国と米国とではスタイルがまるで違った。ハリウッドはプロデューサー(映画の出資者)の力が強いため、監督であるヒッチコックはたびたび彼ら出資者とケンカをしなければならなかった。アメリカでの人脈も経験もないヒッチコックは、だから、知恵を絞り、汗水流して、独自性のある個性的な仕事で勝つ戦いをした

 

⑤ こだわる男ヒッチコック

「莫大な金と沢山のスタッフの力で映画制作をするハリウッドスタイルでなくても、観客を唸らせる映画を作る」というこだわりというか、意地を持っていたヒッチコックは、独自のカメラワークで観客の心を画面に引きつける工夫をした。

 それは「カメラの目線と人の心を直接つなげる」という、彼独自のこだわり(映像哲学)から生まれたテクニックでした。

 そういう技術によって観客は、大きな音や派手な映像がなくても、画面に心を吸い込まれたのです。

 

「下宿人」では無声映画でありながら、音を映像で表現する。

「断崖」ではミルクの入ったグラスの中に豆電球を入れて白を強調することで、「毒入り」という疑惑の心を強くする。

「ロープ」では、全場面を1カットで撮影することで、観客に緊張感を持続させる。

「裏窓」では移動撮影とズーム撮影を同時に行う手法を使う。

見知らぬ乗客」では、主人公がテニスの試合をする場面で、観客がボールを追う目(頭)の動きによって、ボールの動きを表現。また、女性が絞殺される場面では、地面に落ちたメガネに、絞殺の様子を写して、観客により深い恐怖心を抱かる。

ズームアウトしながらカメラを前方へ動かすという「ヒッチコック・ズーム」と呼ばれる手法の考案。

これらはヒッチコックの映像哲学、という強いこだわり(執着心・執念)から生まれた手法でした。

「たかが映画じゃないか」というヒッチコックの有名な言葉には、実はこういう意味と彼の意地があった。「たかが観客を喜ばせるために、湯水の如く金を使い、巨大なセットや多くのエキストラを使って大げさな映画を作るなんて、子供だよ。英国人はもっとスマートに、智恵を使って、観客の心を楽しませることができる」

 

 

 子供のように純真な心、神への信頼と人間への愛情、ジョンブルとしての生き方(戦う心をもちながらユーモアを忘れない)、執着する心。これがヒッチコックのキーワードなのです。

 

 

 

 

 

ヒッチコックはどこにいる ?

 ヒッチコックは彼の映画に、必ず自分が出演した(カメオ出演)。通行人や群衆の一人として、ほんの数秒間ではあるが。そして、映画が公開されると、観客たちは映画のどの場面で、どんな役で、ヒッチコックが画面に登場するのかを楽しみにしていたという。

 

 ヒッチコックのカメオ出演とは、もともとエキストラが不足していた時に、間に合わせとして監督の彼が緊急で出演したのが、その始まりであるといわれています。

 しかし、単なる通行人の役なら、誰でもできる。「知りすぎていた男」でヒッチコックは、アフリカのモロッコで、市場で見せ物が行われている場面に登場している。ところが、その姿は背広にネクタイという、とてもアフリカの砂漠の町にそぐわない格好なのです。 

 

 いったいなぜ、彼はいかにもヒッチコックとわかる出で立ちで出演したのでしょうか。

 それは、彼がその映画に彼の痕跡を残したかったから。

 「みなさん、この映画に隠れたもう一人の私を探り当てて下さい」という、彼のメッセージであり、それはすなわち、彼自身の「犯罪予告」なのです。

この映画には、現実がある。

映画は虚構だが「ヒッチコック」は真実を見せている。

 

ヒッチコックのカメオ出演一覧

下宿人              1927 編集室机に向かう男の役

ふしだらな女        1928 杖を持ち、テニスコートから歩き去る男の役

ゆすり             1929 子どもに邪魔されながら地下鉄で本を読む乗客

殺人!              1930 殺人が犯された屋敷の前を通り過ぎる通行人

三十九夜            1935 主人公が劇場から逃げ出す時、そのでごみを捨てる

間諜最後の日      1936 主人公がスイスに到着した際、共に降船する乗客の一人

サボタージュ        1936  

第3逃亡者      1937 カメラを持ち、裁判所の外に立つ

バルカン超特急      1938 ロンドン・ヴィクトリア駅黒のコートを着た通行人

海外特派員      1940 ホテル前で、コートと帽子姿で新聞を読みながら通り過ぎる。

レベッカ      1940 主人公が公衆電話を使う際、その近くを通り過ぎる。

スミス夫妻      1941アパートのまえで主人公とすれ違う。

断崖              1941 町のポストに手紙を投函する

逃走迷路      1942 工作員が車を止めた際、そこにる薬局のまえに立つ

疑惑の影      1943 列車内でトランプに興じる。

救命艇      1944 新聞の広告、写真で登場する。

白い恐怖      1945 エンパイア・ホテルのエレベーターから出る客の一人

汚名              1946 パーティにて、シャンパンを口にしてから間もなく退出する。

パラダイン夫人の恋  1947 チェロを抱えてカンバーランド駅を出る乗客

ロープ      1948 新聞を手にして通りを歩く紳士

山羊座のもとに      1949 総督のレセプションで話を聞く聴衆の一人

舞台恐怖症      1950 主人公とすれ違い、振り返って見る

見知らぬ乗客      1951 主人公が列車から降りる際、列車に乗り込む乗客

私は告白する      1953 階段から続く道を横切る

裏窓              1954 作曲家のアパートで時計を巻く

ダイヤルMを廻せ!   1954 クラス会で撮影した写真の左側に収まる

泥棒成金      1955 バスで主人公の隣に座る。

ハリーの災難      1955 絵画を眺めている老人のリムジンのわきを通り過ぎる。

知りすぎていた男    1956 モロッコの市場にて曲芸を見物する。

間違えられた男      1956 プロローグにおけるナレーション。

めまい              1958 グレーのスーツを着て、通りを歩く。

北北西に進路を取れ  1959 バスに乗り遅れる乗客

サイコ      1960 主人公が事務所に戻った際、その窓越しに姿を見せる。

鳥              1963 ショップから2匹のを連れて店を出る紳士

マーニー      1964 ホテルの廊下、画面左から登場する。

引き裂かれたカーテン1966 オテルのロビー、赤ちゃんを膝にのせて座る。

トパーズ      1969 空港車いすを押されて登場し、歩いて立ち去る。

フレンジー      1972 演説に集まった聴衆の中の一人

ファミリー・プロット1976 ドアの外に映るシルエット

 

 

ヒッチコックの犯罪

 ヒッチコックの映画は、ほぼすべてが殺人の絡む犯罪映画だ。

 私は型にはまった映画監督だ。もし私が『シンデレラ』を撮ったとしても、観客はすぐに馬車の中に死体を探すだろう」と、当人が言う通りです。

 

映画の主人公の犯罪

 ヒッチコック映画の主人公は、殺人や強盗事件に巻き込まれ、無実であるのに犯にされてしまう。その冤罪をはらすために、警察やマスコミから逃れ、自らというのは、一番多いのは冤罪です。

 ある無実の人間(主人公)が、殺人や強盗事件に巻き込まれ、警察やマスコミから「犯罪者」と断定される。

 傾向として、人間として正直で素直で、優しい者ほど社会の中で(トラブル)に巻き込まれることが多い。

 真実を追求しようとする熱血漢のジャーナリストはシンジケートに命を狙われ、殺人事件に巻き込まれた正直者は警察に追われる。真摯な愛を貫こうとする男女は、回りの人間や社会によって翻弄される。

 真実を追求することが使命であるはずのマスコミでさえ、真実を見る努力をしないで、安易に人を「犯罪者」扱いする。そして大衆は、そんなマスコミの作り出した虚像に踊らされる。

ヒッチコック映画とは、すべてこれ「真実の追求」です。今まで隠れていた、隠されていた真実を、主人公(たち)が探し出す。そのプロセスを描きながら、 

 そこで、ヒッチコック映画の主人公たちは、本当の事実(誰が真犯人なのか)ために戦う。警察やシンジケートという強大で恐ろしい組織から逃げながら。

 

 

 

 

逃避行のなかで出会う人々の善意にたすけられながら、自ら疑いを晴らすべく戦う。

 

 この場合、傲慢なのは警察やマスコミです。

 自分たちが絶対に正しいという意識があるので、主人公の言葉など信じようとはしない。あくまでも自分たちの立場に立って、事実を作り上げていくことが、彼らの正義なのです。

 

 ヒッチコックは「主人公の犯罪」を鏡にして、警察やマスコミの犯罪を見せているのです。真の犯罪者とは誰か、本当の罪とはどういうことをいうのか。本当に悪い奴は誰なのか。とは・悪とは何なのか。そして、真実とは、いったい何なのか。

 

主人公が犯罪者でないことは主人公(たち)しか知らない。彼以外の全員が敵であるという状況のなかで孤独な戦いを行いながら、時には自分の手で真犯人を見つけ出し、自分の運命を救う。

は、

 

 

 ある人間が別の人間(妻や友人・知人、時には無差別に)に殺意を抱いたり、実際に殺したりといった、人間の人間に対する犯罪行為が描かれている。

 しかし、ヒッチコックの犯罪とは、社会というある漠然とした存在が個人に危害や損害を与える。時には殺す、という行為を見てしまった・知ってしまった。知るだけならまだしも、それを映画を観る観客に教えてしまった。これが「ヒッチコックの犯罪」なのです。

 

 社会の仕組みが人を殺す。

 

 

 

「もし、あなた方がどうでもいいことではなく、真実を見て、それを『見える』と言い張るのは傲慢である」ということになる。

 いくら「真実は正しい」とはいえ、それを声高に主張すれば、権力者からは睨658まれ、大衆からも嫌われる。「真実を明らかにする」ことは、功ではなく罪になることが多い。気をつけなさい、と。

 

 では、ヒッチコックが見た真実とはなんだったのか。

 それは社会の真実です。 ヒッチコックは、社会のなかで様々な「恐怖(恐ろしい真実)」を見た。

 だが、それをそのまま映画にすると「罪」になる。だから彼は、彼の見た社会の恐怖を個人の恐怖(殺人)に置き換えて表現した。あるいは、うまくぼやかして、サラリと映画の中に滑り込ませたのです。

 逆に言えば、ヒッチコックは素晴らしい映像や優れたプロットによるサスペンス映画(虚像)で観客を楽しませながら、ほんの少しの実像(真実)を、そこに盛り込んだのです。

 そして、ヒッチコックの語った真実は、彼が死んでいなくなった今、もはや「犯罪」ではない。

 

 

 このあたりが一流といわれる映画監督の腕のみせどころ。社会の真実を赤裸々に映像にして訴えるドキュメンタリーと、人畜無害のただの面白おかしい娯楽映画との境界線で、どこまで存在感のある映画を作れるか。

 セルジオ・レオーネにしても黒澤明にしても、そしてヒッチコックも、どうやって映画のなかで「真実を謙虚に主張する」かに心血を注いだ。レオーネなど、「Once Upon a Time in America」(1984年)という映画では、脚本作りにじつに12年間もかけた。それくらい、罪を犯さずに(非難されずに)真実を語るのは難しいのです。

 

観客の犯罪

 主人公が犯罪者でないことを知る人間はもう一人いる。

 それは映画を見ている観客です。ヒッチコック映画の観客は、映画の中の主人公と一緒に真実を究明する戦いに参加する。

 

 

 鮫に食われる恐怖なんて、海に行かなければいいだけのこと。インディ・ジョーンズや007のような恐怖など、平凡な市民には関係ないこと。しかし、善良な市民が、ある日突然、「犯罪者」の烙印を押され、警察に逮捕され、自由を拘束され、牢屋にぶち込まれるという恐怖は、本当に恐ろしい。

 

 映画の主人公の無実を知るだけに、観客はなおいっそう「罪人」にされた主人公に共感し、スクリーンの中でいっしょに真実を証明する戦いに参加する。

 

 「ロープ」という映画では、逆に、主人公が殺人を犯す場面に観客は立ち会うことになる。その遺体の隠し場所もはじめから見せられる。

 ここでは、主人公は本当の罪人である。そして、その真実を知っている観客は、自分の見た真実を口にできない、というジレンマに陥る。だから、最後に遺体が発見されたとき、主人公は落胆するが、観客はホッとする。

 

ヒッチコックの犯罪

 ヒッチコックは、社会や人生に存在する真実を見ようとし、それを私たち観客という一般市民にみせようとした。そして、それは「犯罪的行為」でした。

 そこで、ヒッチコックは、イエス・キリストのように、あからさまに大衆に啓蒙運動をするのではなく、真実の恐怖を別の恐怖に置き換えて映画にした。

 真実を明らかにすることを嫌がる者たちから「罪人」にされないようにする(トラブルに巻き込まれないようにする)ために、彼は様々な工夫をしたのですが、それが彼の作り出した造語「マクガフィン」のことなのです。

 

 ヒッチコックは「自分だけが見える」と言い張る権力者の立場ではなく、「皆で見えるようになろう」としたのです。

 

ヒッチコックのアリバイ(不在証明)

 

ヒッチコック映画最大の魅力は、スリルとサスペンスを盛り上げるために駆使された素晴らしい映像技術であることに間違いはない。

 だが彼は、カメラを通して映画を撮影しながら、観客が観るシーンの中に「もう一つの映像」を見ていたのではなかったか。

 

 ヒッチコックの映像技術が素晴らしいほど、またプロット(筋の仕組み)に凝(こ)っていればいるほど、そのこだわりとは、「ヒッチコックが見たもの」を隠すためのアリバイではなかったのか、という疑惑が湧いてくる。

 本来、見てはいけないもの見てそれを映画で観客に見せてしまったヒッチコック。その「犯罪」を隠すためのアリバイ工作、これこそが彼の凝った映像技術やプロットなのではないか。

 

 ヒッチコックは彼の映画の中で必ず「何か」を訴えた。

 彼の一瞬の映画出演と同じで、ホンの少しだが、映画という作り物の世界で真実を語った。そして、その辛辣な内容をカモフラージュするために、それと全く関係のない場面やサスペンスによって観客の注意を逸らせた。アリバイ工作によって真実から自分の存在を消した、と考えられないだろうか。

 

 私からすれば、「ヒッチコックの映画は虚構の固まりだ。やたら金髪美人とイケメン(二枚目男優)ばかりが主人公だし、ドラマの設定も映画のストーリーも、突拍子もない事件ばかり映像にしても観客を怖がらせるための過度の誇張を多用する。あまりにも現実からかけ離れた、完全な虚構の映画である。」ということになる。

 

 しかし、99%が嘘であるヒッチコックの世界には、そこに間違いなく真実がある。コインに裏と表があるように。徹底した嘘があれば、必ずそこには真実に通じる道があるはずだ。

 私たちは、ヒッチコックが彼の映画でCommit(犯)したその1%をdittectする(探り出す)ことで、初めて彼の映画を心から楽しむことができる。映画の中の主人公と一体化するだけでなく、ヒッチコックの「共犯者」となることができるのです

 

 ヒッチコックのアリバイとは、たとえば、ある映画のこんな場面だ。

 アメリカ人の医者妻子、ヨーロッパ経由アフリカでバカンスを楽しむ。そこで交わす会話である。

 

医者「なにが可笑しい ?」

医者の妻「ホテル代の出所を思ってたの」

医者「もちろん僕が払ったのさ」

妻「ちがうわ。キャンベル夫人の胆石よ」

医者「あはは、そうか」

妻「パリでの買い物は旦那のビルの扁桃腺」

医者 自分の背広を見ながら、「思いもしなかった。盲腸を着てるなんて」

妻「去年の船旅は2組の双子を含めた7人分のお産」

医者「蕁麻疹(じんましん)と」

医者「帰りの費用はテイラーの胃潰瘍」

妻「それと、アリダの喘息」

医者「かいせんの患者4人で隠退後の生活は安泰

医者「マロウ夫人の3つ子出産で家も改装できる」

妻「ベン、聞かれたら大変よ」

医者「マラケシュ(モロッコのある町)に来たのは自由に話すためもある」

 

 ヒッチコックはアフリカの砂漠で、アリバイ工作を行った。

 つまり、この会話を、もしこの医者の病院や自宅で行っていたら、それは「犯罪」となる。この会話は「冗談」でなく「真実」であると、観客は受け止める。

 しかし、この会話がアフリカの砂漠で、病気や医者など全く関係ない状況で、かつ唐突に行われることで、ほとんどの観客がこの会話の「真実味・現実の怖さ」というものに気づかない。ヒッチコックのアリバイ工作が成立したのです。

 ヒッチコックが語る真実を、真実に見せないようにする工夫。ヒッチコックの「犯罪」を隠蔽するための様々なテクニック。それが「ヒッチコックのアリバイ小作」であり、「マクガフィン」の正体なのです。

 

 「ヒッチコックのアリバイを崩せ」

 これもまた、彼の映画を見るもう一つの楽しみなのです。

 

 

ヒッチコックの見た真実

2000年前から存在する真実

 

真の犯罪者とは誰か、本当の罪・悪とは何なのか。そして、真実とは、いったい何なのか。

 

 2000年前にイエス・キリストが殺されたという事実は、旧約聖書によって、すでに預言されていた。

 つまり、「真実を語る者は、人間が作り出した社会という権威によって殺される」と。

 それは、人間が作り使用していた道具を人間が恐れ、崇拝し、盲目的にこれに従うようになる、という人間の愚かさというか運命です。

 

 これをわかりやすい例に置き換えてみればこういうことです

 数十年前に発明され、いまや人間社会にとって、なくてはならない存在になったコンピューター。

 しかし、単なる人間の道具であるコンピューターは、ネットワークによって互いの意志を通じ合い、次第に人間の操作の及ばないほど巨大な「コンピューターの世界」を作り始めている。そして、人間に使われる僕(しもべ)から、人間に君臨する権威となり、人間がこれに服従しなければならないようになる。終には、彼らコンピューターのために人間が存在する、という完全なる逆転現象が起きる。

 本来、人間の道具であった「物」によって、人の心が支配され、行動がコントロールされる社会。

 それはまさに、1999年の映画「マトリックス」で描かれた世界でもあります。

 

 人間の愚かさが招いた悲劇というよりも、利便の追求、幸福を追求するという人間の性が招いた必然的な「宿命」であり、そうなると、ヒッチコックの言うが如く「恐怖とは人間が自分で作り出したものであり、それに自分で怯えるというのは、まさしく喜劇である」ということになるのでしょう。

 たしかに、リンゴを食べたことで人間は知恵がついた。しかし、それはおいしいリンゴ(幸福)でもあり、毒リンゴ(破滅)でもあった。

 ですから、ヒッチコックの見た真実とは、イエス・キリストのことが書かれた新約聖書以前、数千年前に書かれたといわれる旧約聖書で、すでに預言されていたことなのです。

 

ヒッチコックの見た真実

 では、ヒッチコックが20世紀(1900年代)に、彼が生活した英国や米国で見た真実とは何だったのでしょうか。

 それは「社会の真実」です。

 数学や物理、生物学的な真理ではなく、また、人間個人の心理的作用の真理ではなく、人間と社会の関係における真実。

 私たち人間は、様々な原理原則のなかで生きている。数学・物理・化学・生物学等々の科学的な原理・原則。また、法律・経済という社会の原理・原則という仕組みのなかで生きている。

 ただ、太陽や月が原理・原則に沿って規則正しく運行するのと違い、人間の行動は人間自身が作り出した社会に影響を受けて、本来の原理・原則とは違う行動をすることがある。社会もまた、一人や、ある集団の人間の影響を受けて、異常な社会になることがある。

 ヒッチコックの映画とは、この「個人と社会の相互作用」を描いている。

 ある殺人事件。それは男女の関係のなかで起こるべくして起こった。しかし、そこにもう一つ別の原理・原則が作用することで「異常」な展開となった。その「異常」な部分を物語にしたのがヒッチコック映画なのです。異常といって、決して猟奇的な殺人ということではなく、

 

「時として真実は、口いっぱいにつめられた虫のような味がするものです」

    "Sometimes the truth does taste like a mouthful of worms, sir." 153p

書籍名:North By Northwest

 

個人の行動に

 

。でが普段生活する、この人間社会

 

 ヒッチコックの映画には、よく殺人事件が起きる。殺人というのは、旧約聖書によれば人類最初の罪であり、人を殺すというのは、最も罪が重いとされている。

 しかし、ヒッチコック映画の場合、この殺人という行為そのものには、それほど大きな役割は与えられていない。誰がどこでどのように、そしてなぜ殺されたか、ということはそれほど重要なことではない。私情で殺されようが、国際シンジケートが絡んだ殺人であろうが、なんでもいい。ヒッチコックの言う「マクガフィン」なのです。

 

 たとえば、ヒッチコックの代表作のひとつ「鳥」の場合。

 鳥が人間を襲い、殺人までする。実際、鳥が人間を襲撃するという事例は世界各地である。また、その理由にしても、餌の不足だとか、鳥が食べたものの中に神経を狂わす物質が入っていたとか、いろいろな説がある。しかし、そんなことは(ヒッチコックにとって)どうでも良いことだ。

 ヒッチコックがこの映画で問題にしているのは、本来、人間の愛玩もしくは家禽としての存在であった鳥たちが飼い主に噛みつく(襲撃する)という、主客転倒についてなのです。だから、鳥の代りに犬でも猫でも、そしてロボットでもいい。ですから、鮫が人間を襲うという映画のスリルやサスペンスとは違うのです、

 

 あるいは、私たち市民が、自分たちを守るために「飼っている」役人や警官、検察官や裁判官という、Public Servant(使用人・召使い)が、本当は無実である市民を逮捕し、彼らが作った法律で裁き、時には殺す(死刑にする)。「間違えられた男 The Wrong Man 」(1956年)という映画は、まさにこれを描いています。ですから、ヒッチコックは珍しく、映画の冒頭で数分間、この映画についての解説をします。「みなさん。この話は実話なのです」と。

 

 ヒッチコックは、人間がただの生き物として生活していれば起こることのない恐怖が、社会という人工的な環境によって引き起こされるという「社会の恐怖を描いた。決して、一人の人間が医学的・生物学的に死ぬという恐怖を描いているのではない。

 生き物としての人間が闇夜や飢餓に対して抱く本能的な恐怖ではなく、社会的な恐怖。

 たとえば、警察が自分たちの手柄にしたいために、いいかげんな捜査で無実の人間を逮捕し、精神的に大きなダメージを与え、死刑台にまで送ろうとする。

 

 いまやなにかトラブルが発生すれば、そこへ警察だの裁判所だのマスコミだのが首を突っこんできて話がどんどんややこしくなる騒ぎは大きくなる。警察や裁判所や弁護士という、ほんらい必要悪であるべき存在がシステムとして連携して機能することにより、人の心は無視され、冤罪を受けた家族の心は蹂躙され、社会に殺されるという悲劇が生まれる。本来、個人を助けるはずの社会が人間を殺す。

 

 ヒッチコックは100年近く前(1920年代)に、個人と社会との心の関係がアンバランスになりつつあることを、すでに感じとっていた。警察や裁判所やマスコミという組織が整備され強化される一方で、個人の心は存在感が弱くなり、対等な関係か崩れつつある。ヒッチコックが感じ取った、社会(組織)に対する個人の恐怖こそが、かれの映画の恐怖だったのです。

 

 人々が自分の頭で考えずに、安易に世論(マスコミ)迎合する。また、警察や裁判所という社会組織は事件解決するだけでは満足できずに、事件をり出すことをし始める。つまり、社会組織がどんどん勝手に増殖し暴走し始めるという恐怖。

 これをしてヒッチコックは「恐怖は喜劇である」と喝破した。人間がお金と食べ物を与えて大事に育て、強く大きくなった犬が、今度は人間を襲う、食い殺す。これは、悲しみや恐怖を通り越して、もはや喜劇ではないか、と。

 

 もっと身近なところでも、私たちはこの問題に直面している。

 自分の親や友人、会社の同僚、そして恋人さえも、自分の虚像ばかりを見て真実を見てくれない。本当の自分をわかってくれない。そういう周囲のあなたへの評価とは、あなたという個人の抹殺ともいえるほど、あなた自身の評価とは全く異なることもある。

 そして、人間社会では、自分の自分に対する評価よりも周囲の人間(親、友人、学校の先生、会社の上司や同僚、近所の人たち)の評価によって個人の実在が決定される。「本当の自分」を決めるのは、当人ではなく周囲の人間である。これが現代社会の恐ろしさなのです。

 「バルカン超特急」(1938年)という映画では、自分が見た事実を、自分以外の者全員が否定する、という恐怖が描かれる。民主主義における「多数決の論理」は、真実よりも嘘をついている人間の数が多ければ、それが社会正義になるという恐ろしさを秘めている。「自分が嘘をついている?」という恐怖は、主人公を神経衰弱にし、彼女はあやうく精神病院に入れられ(て殺され)る寸前まで行く。

 

 

 

現代の恐怖

  現代は社会が勝手に暴走している。

 殺人の罪どころか容疑も確定していないのに、警察も新聞も写真と実名入りで「殺人犯」として彼を扱う。

 一方、大衆は怪しい人物がいるという噂や情報に強い興味を示す。現実の恐怖ではなく、観客としてテレビや映画を見るようにして、大衆は事件(の恐怖)を楽しんでいるかのようだ。

 おかげで、そういうスキャンダルを演出する警察官や裁判官、新聞記者たちは毎月の給料をもらえる。一切の事実が確定していない推理・推測という虚像によって、現実の経済活動は成立する。

 この場合の「容疑者」とは、いわば社会の生贄である。現代社会はこの生贄(虚像)によって成立している。それはまるで、株式市場におけるカラ売りや、商品先物市場における架空の売買を連想させる。現実の金や物が手元にないのに売買が行われる。今この時点ではなく、何日、何ヶ月か先の「架空の」金や物が売買される。

 テロだと断定できる証拠がない段階で「テロ」という言葉(妄想)ばかりがどんどん拡大する。ある国が核兵器を持っているという噂によって国民の恐怖を煽り、国家はほんらい必要のない戦争を起こす。

 現代社会は妄想と虚像によって、誰かが逮捕され、私刑になり、金が動き、戦争が始まる。

 

 1955年の「ハリーの災難」では、のどかな田園風景の中に転がるひとつの死体が、4人の生きた人間を右往左往させるという恐怖をコミカルに描いている。

 だが、もしハリーの死体があった場所が、警察や裁判所やマスコミの跋扈する恐ろしい都会であったなら、これは喜劇どころか、いくつもの冤罪が発生する恐ろしい映画になっていた。この死体は4人の人生を地獄へ落とす悪魔の役割を果たしたに違いないのです。

  ところが、「幸いにも」ここはど田舎で、警察や裁判所やマスコミという社会システムが完備されていなかったから、ひとつの死体が4人の生きた人間を幸せにする(2組のカップルを誕生させる)というキューピットの役割を果たし、映画はハッピーエンドとなった。

 

 大都会の社会システムは、まるでコンピューターが自己増殖をし始めたかのように、日に日に強力になり、もはや人間のコントロールがきかない「マトリックス」状態になりつつある。

 そんな社会であっても、私たちは文明の恩恵を受けるために、生活を続けていかねばならない。私たち一人一人は、なんとか社会に自分の存在を抹殺されないようにしなければならない。

 では、そのためにどうしたらいいのか?

 

ヒッチコックの映画とは、それを教えてくれている。

 

 要は、一人一人が個人と社会の存在をしっかり認識し、その関係を正しく理解する。国家や社会に対する安易な安心感を捨て、感情的な世論に流されずに、自分の頭でよく考えて行動する(戦う)ことが大切である、と

 

 ルソーやモンテスキューのいう「社会や公権力」を否定するわけではないが、2000年前の人類の犯罪から、ヒッチコックは「個人と組織(大衆)についての重要な教えを学び取り、それを大衆にわかりやすい娯楽映画にして見せてくれた。彼の映画によって、「真実を知る罪」を「真実を知る喜び」に変える道を指し示してくれたのです。

 

 

ヒッチコックの見た恐怖

 ヒッチコックが100年近くも昔に感じ取ったのは「社会の恐怖」でした。

 ひとつは警察・弁護士・検察・裁判所・市役所といった公の社会装置によって、様々な「犯罪者」が作り出される恐怖。

 「サボタージュ」(1936)では、八百屋が店先にキャベツの葉っぱを散らかしていると、警察官が来て、「滑って人が転んだら逮捕するぞ」と脅す。

 

 現代の日本では、交通違反・駐車違反、脱税、痴漢、セクハラ、パワハラ、客引き禁止条例、禁煙条例、ポイ捨て罰則、等々。人間が都市で暮らす上で、あらゆる人間の行為を規制・監視する夥しい数の法律を作り、この法律を利用して市民を逮捕し、ベルトコンベアー式に犯罪者にするシステムが出来上がっている。

 彼ら公務員は、これでメシを食っている以上、彼らの行為(業務)を止めることはできない。毎年毎年法律は増え、取り締まる警察官や司法関係者もどんどん増加する。市民の生活を守るための法律や公務員が、機械的に犯罪者を作り出す。市民の公僕Public Servant(使用人・召使い)であった公務員たちが、その数を頼んで市民を襲う恐怖。 → 「鳥」(1963年)。

 

 そして、市民の個人情報を自由に閲覧したり、自分たちの裁量で犯罪者にできるという公務員の意識は、やがて「エリート意識」へとつながる。自分たちがこの町の支配者である、自分たちの価値基準で市民は考え行動すべきである。やがて「この町」は「この国」に置き換わり、「エリートたち」によって、国家間の戦争が引き起こされる。「エリート」の行うことは、たとえそれが失敗しても責任を問われない。無知な市民は死ねばいい、という発想です。 → 「間諜最後の日」「逃走迷路」「救命艇」「ロープ」

 

 

 

 もう一つは、大企業の広告宣伝費によって成り立つマスコミという社会的影響力の大きい民間の装置によって、物と金が生活の中心となってしまった人間社会。に人の心が変質していく恐怖。

 

ところが、ヒッチコック晩年の作品であるになると、これら

 

 前年よりももっと便利に、前の年よりも今年の売り上げを伸ばす、という目標のもと、官も民も、ともに利便と利潤の追求をまるで機械のように、確実に増加させていく。そのおかげで、世の中はどんどん便利になり、楽になる。一方で、環境破壊が起こり、人の心もまた破壊され、荒んでくる。

。現代社会はこれら社会装置によって動いているといってもいいだろう。そして、彼ら装置が、利便と利潤を機械的に追求することで、

 ヒッチコック映画における

ヒッチコック映画の主人公たちは、「ミッション・インポシブル」や「007」、「スターウォーズや「インディ・ジョーンズ」に登場する英雄とちがただの弱い一市民。

 

 そして、彼ら市民はスパイや宇宙人や怪獣に殺されるのではなく、警察やマスコミや裁判所という、ほんらい市民を守るはずの「権威によって合法的に殺されるというのだから、恐ろしい

 「苛政は虎よりも恐ろしい」(税金をたくさん取られ、警察にいじめられ、裁判所にさらし者にされる方が虎に食われるよりも、よほど恐ろしい)という中国の故事を、英国流に映画にしたかのようです。

 

 世の中には、ごく普通の人であっても、逃れられない強力な力によって、とんでもない恐怖を味わうということが、いくらでもある。

 その力とは、警察や国際秘密結社のような権力・組織の力ばかりではありません。人間の性こそが、人間を恐ろしい目に遭わせる。これがヒッチコックの言う「恐怖は喜劇」ということなのです。

 人間として自然に授けられた能力や性質が、自分の首を絞めるというのは、ある意味で滑稽かもしれません。

 

ヒッチコック映画に見るさまざまな「恐怖

○ 警察官が自分の身内の犯罪(殺人)を、民間人になすり付ける(冤罪)恐怖

○ 無実の人間が、ある日突然、警察とマスコミによって殺人犯にされる恐怖

○ 公務民間人を間違えて殺してしまいながら全く反省しない恐怖

○ 刑事がテロリストの妻に惚れて、彼女の犯罪(殺人)を隠蔽する恐怖

○ 自分以外が全員嘘をついている、という恐怖

○ 平和や緑を人々に訴える組織じつは国際紛争を煽る秘密組織だった、という恐怖

○ 宗教の恐怖。カリスマ」に心を支配された人間の異常な行動

○ 「安全な場所」がじつは危険である、という恐怖

○ 最愛の夫が自分を殺そうとする、という恐怖

○ 周囲の誰からも信じてもらえない、という恐怖

○ 人を救うはずの医者が人すという恐怖

○ 自分がもっとも愛した肉親が殺人、という恐怖

○ 指導者(エリート残虐性という恐怖

○ 「人徳者・善人」がじつは殺人犯であった、という恐怖

○ 厳格な裁判官が若い弁護士の妻にセクハラする恐怖

○ その弁護士は被告の女性に浮気心を持つという恐怖

○ エリートには殺人が許されるという恐怖

○ 学問だけで人は救えないという恐怖

○ のために人を殺すという恐怖

○ 社会的に立派な人の息子が、精神異常の殺人、という恐怖

○ 大企業社長令嬢が、奔放な性生活をする女という恐怖

○ 「真実を暴くための裁判」が、返って善良な人間を不幸にする恐怖

○ 人が誠実に生きようとすればするほど、社会(組織)は不幸にる、という恐怖

○ 見るはずのないものが見えてしまう、という都会の恐怖

○ 真実を追求することがかえって人を不幸にするという恐怖

○ 社会システムは人間を簡単に死なせてくれない、という恐怖

○ 命の値段(治療費)は恐ろしく高いという恐怖

○ 悪徳弁護士の恐怖

○ 殺人よりも怖いイギリスの料理

○ 「愛」が犯罪を引き起こす、という恐怖

○ 政府発表しか書けない新聞記者の恐怖

○ 文明の進んだ国では、殺人までも「代行」するようになる

○ マザコンのインテリが社会の要職に就いているという恐怖

○ 人間の餌であった家畜が、逆に人間を餌にし始めるという恐怖

○ 自分が最も信頼していた人間が自分を殺すという恐怖

 

 市民を守るはずの警官が「法律という暴力を振るう暴力団」になる。患者の命を助けるはずの医者が薬屋と結託して合法的な詐欺を働く。人間が飼って餌を与えていた鳥(公務員)が、集団の力で主人であるはずの市民を殺す。自分が最も愛している者が、じつは自分にとって最大の敵である、等々。もともと社会生活を営む上で、市民を守るための「装置」が、何かの理由で誤動作し始める。

 

 動物としての人間であれば、起こりうることの無い恐怖が「人間社会」という世界では頻繁に起こる。機械の誤動作ではない。自然に備わる人間の本能が、「社会」という環境のなかでは、突如として狂い出すのです。

 

 

 社会が進歩し、きれいな道路やビルや快適な住環境が整備され、警察・検察・裁判所という法律システムも整備され強化される一方で、それと反比例するかのように、人間の心は、弱く汚く乱れてきている。

 これまで人間に蹂躙されていた、弱くて可憐な生き物である鳥は、昔のままの野性味を維持してきた。そして、弱体化した人間の心を見透かす、かのようにして、ある日を境に野生の鳥たちは、マザコン男や男遊びばかりしている享楽的な女、子供という、精神的に弱い人間を集中的に攻撃し始める。

 

 

ヒッチコックの戦い

 「恐怖を取り除く唯一の方法は、それを映画にしてしまうことだ(ヒッチコック)

 

 「私たちが無意識に恐れているものの正体を明らかにすることで、恐怖を勇気に変えろ」ということ。ヒッチコックはだから、人の心の中にある恐怖を映画という公(おおやけ)のものにした。日本の東洋大学の創始者である井上円了が、「妖怪の研究」という看板を掲げて、100年前、西洋の科学技術を教えるのではなく、日本人の心に潜む恐怖心を明らかにするという啓蒙活動をしたのと同じです

 こわもての「権威」も、そこにある真実を見れば、「そこらのオッサンとおんなじや」と親しみを持てる。殺人鬼もその動機が科学的に明らかになれば、鬼ではなく病人として見ることができるように、警察官は愛すべき友となり恐怖は喜劇となる。

 

 恐怖の正体を知れば勝てる(恐怖心はなくなる)ことはわかった。

 では、恐怖を生み出す社会(組織)と戦うにはどうすればいいのか。ヒッチコックは「愛」と「信じる心」によって戦う人間の姿を映画で描いている。

 

家族の愛

 釈迦や菩薩が助けてくれるという、上から目線の「慈悲」ではなく、親も子供も対等な関係。父親と母親と子供は「戦友」であり、互いに意見を言い合い、喧嘩をしながら共に敵と戦共通の目的を達成していく。これがヒッチコックの愛であり、キリスト教の愛なのです

 

男女の愛

 たまたま知り合っただけの関係でありながら、二人が危機的状況の中にいることで、心と心がつながる。幸せ一杯という環境における「偽物の愛」ではなく、死ぬか生きるかという絶体絶命の状況の中でこそ、人はその本性がむき出しになり、互いに真剣になり、その結果、真の友情 → 愛情へとつながりが深まっていく。あかの他人が家族となる。

 

民衆の愛・隣人

 家族でも恋人でもない、ただの通りがかりの人間の愛。それも、インテリよりもトラックの運ちゃんやサーカスの芸人といった一般大衆の方が、人間を素直に見れる。信じる勇気を持っている。肩書や収入よりも人間の心で人とつきあう人間には、真実を見る力(=愛)がある。

 

 いずれの場合においても、大切なのは、自分と相手を信じるということ。そして、信じるためには積極的に、妻に子供に恋人に隣人に話しかける、働きかける。互いに意見を言い合い、喧嘩をしながらお互いのモチベーションを高めていく。愛でも信心でも、一方的に与え・受けるものではない。双方向で、いわばキャッチボールをしながら、どんどん絆を強めていく、というスタイル。

 イギリスのラグビーが強いのは、日本人に比べて体格がいい、とかということではなく、こんなところに理由があるのかもしれない。

恐怖の克服

「人間が困難に立ち向かう時、恐怖を抱くのは信頼が欠如しているからだ。私は私を信じる」(It's lack of faith that makes people afraid of meeting challenges, and I believe in myself.)モハメド・アリ

ジョンブル・ヒッチコックの見た光と闇

 善と悪は裏表の関係にある、いわば天使と悪魔正義と邪悪は同じ神から生まれた双子の兄弟。「きれいは汚い」(シェークスピア「マクベス」)。警官は悪を懲らしめもするし、また、悪にもなる「諸刃の剣」。便利ばかりではない。

 ヒッチコックは、ものごとの両面を見ていたのです。

 

 映画の中で、俳優たちが口にするセリフから、ヒッチコックが見た社会の理想と現実、光と闇、虚と実を見てみよう。(映画の出典については"ミステリー"ということで)

 

理想

一般市民「我々の候補者(国会議員)が住みよい世界を築くことを切に願うばかりです。国家間の陰謀や人間同士の争いもなく、迫害や弾圧もない世界、誰もが公平に扱われ人々が助け合う世界。疑念や恐怖から永久に開放された世界です。これこそが我々の理想です。」

 

「昔は誰もが美しかった。世の中も。しかし、いまは違う。何もかもね。昔が懐かしい。」

「今だって家族は幸せよ。こうして一緒だもの」

 

アメリカ人「この国は破壊活動を許さない。逃げられると思うな。」

秘密組織の首領「ご立派だ。理想と希望に満ちている。」

 

 無実の罪で追われる若い男が、森の中に一人住む盲目の老人と出会う。この老人はアメリカ人の良心を代表するような人間。1977年に公開されたアメリカのSF映画『スター・ウォーズ』における、主人公ルーク・スカイウォーカーベン・ケノービの関係を思い起こさせる

 

老人「ヒッチハイクかね。この国を知るには一番いい方法だ。米国人の良心を試せる。」

 

あの男は危険な男なのよ」

老人「よく知らずに決めつけてはならない」

「警察に通報するのはアメリカ市民としての義務よ」

老人「無実が証明されるまで潔白を信じるのも市民の義務だろう」

老人「法に縛られない義務というのも存在するのではないか」

 

老人「名前は重要ではない」

老人「かまわず行くんだ。自分の信じる道を進めば良い」

 

この老人は、音だけで主人公が手錠をしているのを見抜いてしまった。まるで、勝新太郎の「座頭市」のようだ。

 

老人「お前(姪)には見えないか。私には彼の無実がハッキリと見える」

老人「よく知らずに決めつけてはならない」

 

老人「秋の嵐はすぐ去るものだ。激しい雨もつかのまだよ。」

それでも、姪は容疑者の男を信じない。

「世間はお人好しばかりじゃないわ」

「空腹で食べ物を盗むとか、正当防衛のための殺人なら話は別よ。でも破壊工作なんて許せない」

 

逃亡する男と女サーカス団一行トレーラーに逃げ込む。

団長「密航者か。荒野のまん中に流れ者が二人。我々と同じ放浪者だ。」

団長「皆の意見を検討して決めよう。我々の国(アメリカ)は民主主義だ。(彼らを匿うかどうか)投票をする」

団員の男「投票は反対だ」

団長「ファシストめ」

団員の女「私だってトラブルは嫌よ。でも気がついたの。素敵なことに。この若い女性はずっと彼に寄り添っている。ただ黙って彼の側に。どんな苦境に陥っても決して離れない。こう思ったわ。人を見捨てないのは善人の証拠。この世に善人が少ないことは私たちが一番よく知っているはず。この人たちのために投票するわ。」

 

 

逃亡する男との会話

「言っておくわ。あなたを信じる。」

「なぜ?」

「ここは自由の国よ。いいでしょ。彼らに学んだの。誠実な人たちだわ」

 

(テロリストの容疑で逃亡した)この数日間。私は多くの人から多くのことを学んだ。良心に満ちた人や、正義感にあふれる人もたくさんいた。愛と憎しみ。いま、世界は二つに割れている。私の選択は正しい。味方も大勢いる。決して弱くなどない。悪に屈せず、勝利の日まで戦い続ける。あなたたちが何をしようが、正義は勝つんだ」

 

 

戦争

 

「俺は戦争が始まってから目的地に着いたことがない」

 

「なぜ人間同士が殺し合うのか理解できないわ」

 

年配の婦人「他人の迷惑を考えないから、もめ事が多くなるのね」

 

「前回の戦争(第一次世界大戦)後の好景気をこの戦争(第二次世界大戦)が終わればもっと期待できる。戦争が終われば中国から4億人もの客が押し寄せる。」

「都会は、戦争で夫をなくした中年の未亡人であふれている。彼女たちは夫が必死で働き稼いだ財産を当然という顔で受け取っているんだ。その愚かな女どもは毎晩豪華なホテルで贅沢三昧。さんざん飲み食いした挙げ句、毎夜ギャンブルで派手に金を使い果たす。宝石ばかりに目をくらませ、いじましい。太った強欲な女ども。」

 

「いまは戦時下だ。愛国心が高まっている」

 

民主主義

「今のような時代に、専門家を信用できますか ? 専門家だけが実権を握る時代は終わりました。いまこそ、アマチュアの時代です」

 

イギリス人の政治家「私のようなおいぼれは好きにしろ。しかし、民衆を征服することはできないぞ」「鳥にパンを与える小さき人々は、彼らを欺き、追い立て鞭を打つのだ。戦争に駆り立てるがいい。お前のような野獣が殺し合っている間に、世界は変わるだろう。小さき人々が世界を変える」

 

 (無実の罪で)逃亡する男と女は、サーカス団一行トレーラーに逃げ込む。

団長「密航者か。荒野のまん中に流れ者が二人。我々と同じ放浪者だ。」

団長「皆の意見を検討して決めよう。我々の国(アメリカ)は民主主義だ。(彼らを匿うかどうか)投票をする」

団員の男「投票は反対だ」

団長「ファシストめ」

団員の女「私だってトラブルは嫌よ。でも気がついたの。素敵なことに。この若い女性はずっと彼に寄り添っている。ただ黙って彼の側に。どんな苦境に陥っても決して離れない。こう思ったわ。人を見捨てないのは善人の証拠。この世に善人が少ないことは私たちが一番よく知っているはず。この人たちのために投票するわ。」

 

 ある町で、市長の着任演説が終わると、すかさず聴衆から野次が飛ぶ「歌わないのか !」「市長なら、市民にそれくらいのサービスをしろ」と、市民一人一人が思っている。これがイギリス人の民主主義というものなのだろう

 

 

神の目線(愛の精神)

 彼等の前途を祝福しよう」1937年『バルカン超特急』

 敵を取り逃がしたドイツ人の首領が、逃げきった英国人たちを讃えてこう言う。

 憎き敵。自分を攻撃し、自分に嘘をつき、自分に不利になるようなことをした敵にさえ、「Good  Lack」と言える器量。これは、ユダヤ教やキリスト教・イスラム教といった「神の目線(大きな視点)で物事を見る宗教」に共通する感性。

 日本人には神道という優れた宗教がありながら、「神頼み(下から神に懇願する)」レベルでしかこれを運用していない。自分の心を神の目線(客観的な視点)に置くことができない。(日本の武士、宮本武蔵はこれを「五輪書」で指摘した。)

 

ジョンブル 質実剛健・キリスト教徒・ユーモア

 他人のトラブルにかかわらない。自分と家族のことが第一であり、変な国家崇拝的な感情がないから、「右翼や左翼」という概念がない。「政治は政治家がやればいい。俺たちはクリケットの試合の方が大事だ。それが民主主義だ」。

自分の生活に直接関係しないことには決して首を突っこまない。他国同士のトラブルなど無関心。これは男も女も同じ。皮肉屋・ユーモア家。

シェークスピアの「ハムレット」を超えたハムレット。それが英国の「ジョンブル」たちです。

彼らは青年の持つ純粋な魂 - それは非常に繊細で壊れやすい、ガラス細工のような感性なのですが - を、キリスト教精神によって強化し、社会と戦うことを学んだ男のこと。  

 日本で言えば、黒澤明の映画「姿三四郎」の柔道家・矢野正五郎のような人間のこと彼の弟子である純真な青年・姿三四郎はハムレットそのものだが、彼の師匠である矢野は「ハムレット的なるもの」を乗り越えた、真の大人であった。

 日本の戦国時代の武士細川幽斎など、豪気でありながら飄々とした味わいのあるジョンブルでしょう

 

ジョンブルの条件

子供のように熱中するものを何か持っている(純真な心)

徹底的に執着するこだわる信じる(ガッツ)

協調(愛)

 

ヒッチコック映画のジョンブル(イギリス人)たち

イギリス人が自分たちのことを「三流国だからね」と、飄々とした顔で言う。

 

イギリス人A「彼女たちは ?

イギリス人B「アメリカ人だろう。金使いが荒いからね」

 

「新聞はいつも大げさだ。危険なら以前にもあった」

 

イギリス人が、国際電話でイギリスの交換手と話す。「クリケットの試合のことが知りたい。何、知らんだと? それでも英国人か」

 

イギリス人(女)「この国の人々は音楽と笑いを愛してるの」

イギリス人(男)「政治に反映されていない」

イギリス人(女)「政治で国を評価できない。英国人はとても正直ね」

 

 

Herald Tribuneを読みながら、「野球の記事ばかりだ。ガキの遊びだ。クリケットの記事がないぞ。米国人は分かっていない」

 

食堂車で紅茶を注文するときに、自分が持っているお気に入りのお茶をウエイターに渡して、それを使わせる。

「お湯は必ず沸騰させてね」「両親がこれを飲んでて、いまも健在なの。良い事は真似なきゃ」「子供は産んだ方がいいわ。私も子供たちと一緒にいたから、若く見えるでしょ」

 

クリケットの試合について二人のイギリス人がお茶を飲みながら話している。

「あれはアウトだった。審判の誤審だよ」といって説明するため角砂糖をケースから全部出してテーブルに並べ始める。

 

「さわらぬ神に祟りなし」

「英国人ならそうする」

 

イギリス人「クリケットの話に夢中で気がつかなかった

アメリカ人殺人事件かもしれないのよ。そんなくだらない事で」

イギリス人「聞き捨てならんセリフだ。くだらんだと(怒怒)

 

 

銀行「ご商売の経験は?」

イギリス人「ないんだ。アイルランド貴族の末っ子で財産もない。近視で馬は嫌いだ。狩りもできない。気の毒だろ ?(笑)

 

「金集めは蚤(のみ)取りより難しい」

 

雇用主(応募者である)若い紳士の誓いなど信用に足りん」

 

「MINYAGO YUGILLA(嘆くこと勿れ) 」

 

「育ちの良さが重荷になることもある」

 

イギリス人女性「気にしないでね。英国人は悪趣味なの」

 

男性スミスというのは偽名だね」

女スパイ「場所によるわ。アナベラと呼んで」

男性「牧師の娘みたいな名前だな」

 

女スパイ「二人の男に命を狙われてるの」

男性「男選びは慎重にしろ」

 

男性犯人に拳銃で撃たれたが、胸のポケットに入れていた賛美歌が弾を止めた」

警察官「驚かんね。オレも賛美歌を歌うときはいつもそうだよ。途中でつっかえる。」

 

手錠でつながれた男と女

女性「私と一緒じゃ逃げられないわよ」

男性「それは未来の旦那に言うセリフだ」

 

イギリス人の情報部員のおばさんは、自分の所為でたくさんの人が殺されそうだというのに、自分だけサッサと汽車を折りで逃げてしまう。

これが秘密情報員としての任務なのか、英国人らしい冷酷さなのか。

 

 

過去の(悪い)思い出に悩まされる人が:

「誰も過去に生きたいとは思いません。私たちを過去から救い出してください。」

(オーストラリアでは)成功者の過去に触れないのが暗黙の了解です。過去に触れぬこと。悪しき記憶は追憶の彼方へ」

 

「私は幸福が何かわからない」

「世間に勝つこと

 

「明日は明日が解決する」

 

イギリス人「財産も築かず帰るのは私くらいだな。私はダブリンの異端児だ」「オーストラリアは広大な国だ。未来は明るいだろう。しかし、私はもっと大きな世界を求めている。」

権威・権力

ヒッチコックというか、ジョンブルは公平です。

大人から子供まで、男も女も警察や裁判官に対しても、忌憚のない意見を言います。誰に対しても、言葉は丁寧で、公平な態度です。

 

女性「国旗を手に盗みを働くのが警察の愛国心よ」

 

刑事「警察はボンクラだな」

 

レストランで

「満席だから上の階へ行ってくれ」という従業員の言葉を無視して、従業員の見ていないスキに勝手にテーブルに坐る刑事

刑事「僕には刑事としての仕事がある」

恋人「警察なんて推理小説で十分よ」

刑事「笑えるね」

 

ある刑事が自分の恋人の(煙草などを売る雑貨店)にやって来る。

たまたまそこにいたおばさんとの会話。

おばさん例の殺人事件は ?」

刑事「僕が担当している」

おばさん「逮捕したら昇進でしょ」

 

 二人の警察官が容疑者の若者を追って建物に入ろうとする。入り口には犬がいて侵入者に吠えたてる。年配の警察官が若い警察官に言う「その犬を押さえろ」

若い警官「危険です」

年配の警官「昇進できるぞ」

 

 徹夜で尋問されて、朝になり気を失った容疑者の男を、たまたま警察署に来た警察署長の娘(ガールスカウト経験者)が、叩いて起こす。

「叩き方もガールスカウトで習ったのか?」

警察署長の娘「刑事を見て覚えたのよ」

 

警察署長「正当な手順とは言え、徹夜で尋問するとは・・・」と不快な顔

「ロンドン警視庁ですからね」と笑う警官

 

弁護士「警察に素直になれば、君のためになる」

容疑者の男「弁護士さんは警察の味方なんですか?」

 

車が農道でエンコした警官二人の前に豚を積んだ小さな馬車がくる。

警官「止まれ」

百姓「なぜですか?」

警官「我々を乗せろ。これは命令だ」

百姓「理不尽すぎます」

警官「任務中なんだ」

百姓「俺も同じさ。仕事中だ」

警官「どこにればいい?」と偉そうに言う警官

百姓「豚と一緒に坐ってくれ

警官「狭すぎる」

百姓「定員オーバーなんですよ」と、しぶしぶ馬車を走らせる。

 

老人の姪が言う。「警察が凶悪犯を追っている」と。

それに対して老人は、

老人「警察は大げさに言うものだよ」

姪「逃走している犯人は危険な人物なのよ」

老人「本当かどうかわからないじゃないか」

老人「警察のいうことはいつも決まっている。」

 

おい、ここは駐車禁止

そんなことわかってる。もっとマシな仕事をしろ !

 

調査と称して、人妻を高級レストランに誘う刑事こんな高級レストランは初めて、なんて言いながら、じつは何度も「調査」でこのレストランを使用していることがばれてしまう。  

 

インネン(因縁)をつけて、庶民を脅す

警官「危ないぞ」

八百屋の店員「何が ?」

警官にキャベツの葉っぱが落ちてる。通行人がこれに滑って、足に怪我をさせるのが楽しいか ?」

店員「あなたの足ならね」

店員「オレンジは足にいいんですよ」と、手にしていたオレンジを警官の鼻面に突きつける。不愉快そうなをして立ち去る警官。(八百屋もジョンブルである)

 

をする

夫をナイフで殺した人妻。だが、夫の死体は爆発で跡形もなくなってしまう。

刑事「心配するな。(オレ以外)誰も真相を知らない。」

 

「警察は都合よく事実をねじ曲げる

 

 

警察署長宅の夕食で。容疑者に逃亡された事件について家族で話をしている

子供A「警察も無力だね」

子供B「若い血が必要だ」

警察署長(苦笑い)

 

警察が深夜に家の戸を叩く。

警察官「警察だ。戸を開けろ !

家人「警察だからって、夜中に模範市民を起こすのかい?」このおばちゃんもジョンブル。

 

 

民衆「聖職者が夜中に女と密会なんかしていいのか !」「坊主を辞めろ !」

と、裁判所から出てきた神父を激しく非難します。

 殺人の冤罪は晴れたのですが、ジョンブルたち(映画ではカナダ人たち)は、聖職者というものにことのほか厳しい。日本の坊主のようなわけにはいきません。キリスト教では、買春などすれば厳しい非難をされます。

 

 

自分の愛する男の妻を殺害しようとした女性について:

あなた、教えて。そんな恐ろしいことをする愛って何 ? あなたと私が語る愛とはまるで違う」

(愛のために他人を殺そうとする人間とちがい)君は私を守るため、過去において命を差し出した」「私たちは犠牲に次ぐ犠牲を重ね、互いを犠牲にして生きてきた。(人を犠牲にしない愛)

 

「結婚して喧嘩したら、今日の話をしよう」

 

「愛のために人を殺したとしたら、素敵よ 」

 

「彼を信じるのよ」

 

「主は羊飼い。私は満たされている。主は私を牧草地で休ませ、そして憩いの水へと伴ってくださる。私の魂を生き返らせ、その名に相応しく正しい道へと導いてくださる。死の陰の谷を進むことになろうとも私は恐れない。あなたが側にいてムチと杖で励ましてくださる。命あるかぎり、恵みと慈しみを忘れはしない。私は永遠に主の家にとどまる。アーメン」(救命ボートの上での葬式で)

 

「結婚生活の秘訣は寛容だ」

 

「私は幸福が何かわからない」

「世間に勝つこと

 

「愛は一度きり。でも情熱は」ボクの座右の銘だと言う、5歳くらいの男の子。

 

 精神分析医が主人公の映画で、冒頭、こんな文句がテロップで流れる。

「過ちは運命の中にではなく、我々自身のなかにある(シェークスピア)

 精神分析とは科学による情緒障害の治療法である。

 精神分析医は患者を誘導し、心の扉を開かせる。

 患者を苦しめている問題が明らかになり、解釈されると、病気と混乱は消え去る。

 そして、魂は不条理な記憶から解き放たれる

 こんな大仰な文句が並べられているが、実際にはこの映画で起きた事件は、男女の愛によって解決される。愛の力が、しぶとく執念深く、恋人の無罪を信じる女の原動力となった

 

 車の中でキスをする若い男女を見て、老婦人が。

「まあ、なんてお熱いの」

 

 

エリートの犯罪

 ある映画の中で、殺されたのはハーバードの卒業生。殺したのもまた、ハーバードの卒業生。(エリートがエリートを殺したという話であるから、凡人には関係ないが・・)

 

 

エリートの若者「善良な国民は戦場で死ぬ。彼は生きてても場所をとるだけだ。完全犯罪の犠牲者にはもってこいだ。ハーバードの卒業生だからね。正当殺人だ。」

若者「殺すのは誰でもよかった」

 

若者「殺人は芸術だ。殺すのは創るのと同じくらい満足感がある」

 

若者「俺たちは口先だけの凡人とは違う。誰も実行に移す者はいない」

 

若者「殺人は多くの人間にとって犯罪だが、我々にとっては・・・」

 

この若者と彼の大学時代の恩師(教授)、友人の父親(老人)、女性たちとの会話。

 

教授「鶏は十分殺人の理由になる。金髪の美女や大金と同じさ。些細なことが理由になる」

女性「殺人を認めるっていうの」

教授「問題を解決するには有効だ。失業問題に貧困。チケット売り場の行列。劇場で最前列の席を取るには拳銃を使えば良い」

教授「殺人は芸術だ。舞台なんかとは少し違うがね。従ってその特権が許されるは、少数の優れた者に限定される。」

若者「犠牲者となるのは劣る者たち」

教授「とはいえ一年中殺人を解禁にするのは反対だ」

老人「殺人が優れた者に許された芸術などというのは、狂っている

 

老人「では、誰が優劣を判断し犠牲者を決めるのだね」

若者「特権を持つ者」

老人「たとえば ?」

若者「優れた知性や教養を持つ者は道徳概念を超越している。善悪や正誤は凡人のために作られたものだ。」

老人「ニーチェの超人論だ」

若者「そうです」

老人「ヒットラーだな」

若者「ヒットラーは偏執狂だ。信奉者は能無しばかり。殺せばいい。まず愚か者を殺す。次に無能な人間を殺していく」

老人「私も殺せ。君を理解できんバカな男だ。君の言っていることは人間に対する侮辱だ。文明社会をバカにしている」

若者「文明なんて偽善の固まりだ」

 

この場面は私に40年前の日本の学生運動を思い起こさせた。日本で一番優秀といわれる東京大学(東大)の学生たちは、この映画の主人公のようなエリート意識で「革命」をしようとしていた。そして、大衆の支持を得られずに失敗した。人殺し、破壊、略奪。世の中を混乱させるだけの「子供のおままごと」だった。

一方、現代、2014年3月に台灣で起こった、台北大学というこれも台灣で一番優秀な大学だが、この台北大学の学生を中心にして起こった学生運動。これは全く違っていた。たしかにエリートたちが大衆の気づかなかった重要な問題提議をしたのだが、それに対して台北大学の総長を始め、台灣中の全大学の8割が支持を表明し、一夜にして50万人もの民衆が学生を支持して台北に集結した。同じ優秀な「エリート」でも、その知識を子供の火遊びにしか使えなかった幼稚な東京大学。そして、その優れた知識を大衆のために使った台北大学。これは単に大学というよりも、日本人と台灣人の民度の違いに所以するのかもしれない。

 

 

若者の殺人が教授にばれた時の会話。

若者「劣者の命には価値がない」

若者「二人でよく話しましたよね。善悪や正誤の道徳的概念は優者には当てはまらない、と

教授「覚えている」

若者「それを実行したんです。あなたとの話を実践したんです。あなたならわかるはずだ」

 

教授「いまの今まで、私は世の中や人々のことが理解できなかった。だから、理論と知識で説明づけてきた。でも、君に言われて気づいたよ。確かに自分の言葉は尊重すべきだ。だが、君はとんでもない解釈をしている。忌まわしい殺人の口実にしている。君は間違っている。許されない。君の心の奥底には、これを実行させる何かがあった。私の中には実行させない何かがあった。君と私は違うんだ」

教授「優者と劣者の概念なんてばかげている。君に感謝するよ。我々は個々の人間であるということがわかった。 誰でも生きて考える権利がある。社会の義務の中でね。一体、何の権利で自分が優者の一人だと。何の権利でその若者が劣者だから殺してもいいと決めた ?自分を神とでも思っているのか」

 

 

エリート意識の源泉それは聖書にある。

「天国へ行ける資格は誰にでもある。しかし、実際にそこへ行ける人間はごくわずかだ」

イエス・キリストのこの言葉は、アンドレ・ジイド「狭き門」の題名にもなった。

旧約聖書の「ノアの方舟」という話も、それと同じことを言っている。

誰でも助かるはずなのに、実際にはノアたちごく少数の人間(と動物)だけが助かった。

「神の救い」とは信じることにある、という聖書の根本テーマがここにある。

 

 「エリートとはこのごく少数の人間のことをいうのだが、それは決して頭がいい、偏差値が高いということではない。聖書に言う「エリート」とは、神を信じる素直な心を持った人間ということだ。

 殺人を犯した若者は、まさに聖書の思想を曲解した。教授の言葉はそれを指摘しているのです。

 

「東部の連中(エリート)は皆こうだ。命令ばかりしやがる。デスクにふんぞりかえって、あとは俺たちの仕事に指示を出すだけだ」

 

「なぜ多くを手にしながら、この国を欺く ?」

秘密組織の首領「君のようなものには理解できないことだ。疑問も持たずに生きている、単純な馬鹿者たちにはわからない。愚かな民衆たちよ。我々はそんな奴らとは違う。一生のうちに多くのことをなし遂げたいと考えている。つまり、もっと有益な政府が欲しいのだ。全体主義の国家の方が優れていると思わないか。効率的な国になる。」

 

秘密組織の首領は、一時、南米へ逃亡することにする。

首領「大いなる権力を手にするために、また米国へ戻ってくる。君が安らぎや仕事、そしてあの女性を求めるのと同じく、私は権力を渇望する。そして、その権力の行使こそが、私の快楽なのだ。」

 

「あなたの言う権力は私の親友の命を奪った。大勢死のうがそれを気にかけないのは、あなたが人々を憎んでいるからだ。」

 

 

秘密組織の首領「もうこの国も飽きたよ。戦争で荒んでいる」

 

 

銀行 

銀行に口座を開きに訪れた男が行員に。

「横領の邪魔をして悪いね」

「月末に帳簿の帳尻合わせなどお手のものだろう。それが銀行の実体さ。裏で何をしているかわからない。」

 

就職の面接で ;

社長「帳簿付けはできるのか。」

求職者「はい」

社長「だから、横領したのか?」

 

まいにち金勘定ばかりしていると、人間は誰でもちょろまかしたくなるもの。

 

マスコミ

新聞の海外特派員とは(映画では第二次世界大戦の直前)

 

新聞社社長「政府高官によると、当面戦争の危険はなし、だと?

「なにが政府高官だ。役立たずが」

「海外特派員め。占い師に聞いた方がましだ」

「特派員の連中はみな無能だ。戦争が目前だというのに、推測だけでものを書く」

「必要なのは事実だ」

「これ以上知識人ぶった特派員が増えては困る。私が欲しいのは、頭の柔らかい記者だ実直な事件記者だ」

「世界はいま、事実を忠実に伝える記者を求めている」

そうだ、彼なら適任かもしれん。わが社の記者で給料泥棒を捕まえたやつがいたな。確か、警察官を殴ったという。今の欧州情勢を取材するもってこいだ。あいつを海外特派員にしよう

 

 

前任の海外特派員「私はこれでも25年もロンドンにいる特派員だよ。政府発表に署名をして送るだけだよ」

 

一民間人がジャーナリストに「ジャーナリストは世界中を回っているのに、自分のことしか書かない。この戦争は君にはショーみたいなもんだ。最終的に大勢死ねばいいストーリーになる。」

 

「なぜみんな嘘をつくの」

 

「たとえ君が物事を分かっているつもりでも、世の中はそれほど甘くない。君は小さな街の平凡な女の子で、毎朝目を覚ましてから何の心配もいらない。なに不自由なく暮らし、夜だって安心し呑気な夢を見ていられる。僕が悪夢だと。そんなものは君のまやかしさ。空想を描くだけで世の中のことなど何も分かっていない。この薄汚れた世の中を、表面の皮を剥がせば豚だらけ。そんな最低の世の中に天罰が下っても当然だ。」

「伯父は世間を嫌ってて、いつも不幸だった。人を信じられず、とても憎んでいたわ。世の中すべてを。それから、君たちは世の中の汚さを知らないだけだ、と言っていた。」「それほど悪くない。だが、時々正気を失う人がいるのは確かだ。叔父さんのように。」

 

「世間こそ茶番(嘘つき)だ」

 

「ならず者にも神のご加護を(アウトローこそ、真実を生きる)

 

 

 医者が、言うことを聞かない「女性患者」を入院させるために、その友人の男に説得するよう依頼する。

「僕は薬の役目か」

医者「砂糖をまぶせば飲む」

 

 

 人妻と密会旅行中の検事が、「見ていない」と嘘の証言をする。

検事「法律家がいらぬ疑惑を招いてはいかんのだ」

人妻「人妻と6週間も旅行してたくせに」

検事「見たといえば、重要証人になってしまう」

 

「たとえ本当のことでも言うな」

 

「広告の世界には嘘などというものは存在しない。そこには適度の誇張があるだけなんだ、知っておくといい」

 

「時として真実は、口いっぱいにつめられた虫のような味がするものです」

 

破壊工作員の開催したパーティで楽しそうにダンスをする人々の中で。工作員たちの秘密を知る男女が。

「私怖いわ。みな楽しんでいるのが嘘みたい。」

「本当のことを言う人間は酔っぱらいとしか見られないしな。」

「北極でもいい。別の場所であなたと会いたかった」

 

「本当の感情を隠すのが俳優ってものさ」

 

 

男と女

あなたの妻として必要なものが、私にはいくつも欠けている。美しさ、知性、教養。女性にとって大切なものすべてよ。」

「あなたはもっと大切なものを持っています。心の優しさ、誠実さ、それに、謙虚さも。夫(私)が何より求めるものです。」

 

 客船が沈没し、救命ボートに乗った女性。彼女は初め、毛皮のコートを着て、ジャーナリストらしくタイプライター(今で言えばノートパソコン)やカメラを持ってボートに乗っていた。それが、漂流する間に、どんどん所持品が海に流されてしまう。

 「大事な所持品がどんどん消えていく。最初はストッキングで次はカメラ、(貴重な沈没の瞬間を撮影した)フィルムを失ったと思うだけで寝込んでしまいそう。膝掛けを失い、毛皮のコートにタイプライターも。」

 何もかも失った究極の状況で、しかし、立ち上がったのはこの女性

 金持ちは遺産の話、ある男女は「もし助かったら結婚しよう」という夢の話。一番元気だった入れ墨のアメリカ男はヘタって何もできない無気力状態。黒人は神に祈るだけ。

 ジャーナリストの女だけが、彼らを「根性なし」と罵り、独り、積極的に解決策を考え出す。死んでも放さないと言っていたブレスレットを魚の餌にして釣りをすることを提案する。

 

極限状況では、意外と女の方が強いのかもしれない。

 

水族館で

「牡蠣の繁殖力は強い。そして、産卵後、雌は性を変える」

「ふん、理解できるわ」

頭で理解する男と、身体で理解する女の違い。

 

 爆弾を持った男を映画館の奥の部屋に追い詰めると、男が「爆発させる」と叫ぶ

追い詰めた刑事二人の内の一人刑事Aがもう一人に言う「ここはオレにまかせて客を非難させろ」

刑事B「お前には女房がいるだろう

刑事A「だから残るんだよ」

 

テロ

サボタージュとは、故意に破壊行為を行うこと。その目的はある組織に警告を発したり、市民を恐怖に陥れたりすることである」という字幕。

 

現場の刑事テロの目的は ?」

上司「我々の注意を引くことだ」

上司「足を踏んだ隙に財布を盗むスリと同じだ」

刑事「黒幕は ?」

上司「絶対に捕まらない奴らだ。自分の手は汚さない」

 

「ロンドン市民に恐怖を与えろLondon must not laugh on Saturday

 

 

 

ヒッチコックについて

ある男性「お父さんの職業は」

ある女性「画家です」

男性「腕はいい ?」

女性「ええでも世間の評価は低くて」

男性「そういうものです」

 

女性「一本の木ばかり描いていました

男性「同じ木を繰り返し ?」

女性「父の信条でした。完璧なものを見つけたら手放すな、と」

女性「変だと思います ?」

男性いいえ。私もそう思いますよ

(結局、男性はこの女性にプロポーズする)

 

↓↓↓↓↓↓↓↓ 読み替えてみると。

 

男性「お父さん(ヒッチコック)の職業は」

女性映画監督です」

男性「腕はいい ?」

女性「ええでもハリウッドの評価は低くて(アカデミー賞をもらえません)

男性「そういうものです」

 

女性サスペンス映画ばかり撮っていました

男性サスペンスを繰り返し ?」

女性「父の信条でした。完璧なものを見つけたら手放すな、と」

女性「変だと思います ?」

男性いいえ。私もそう思いますよ

 

 

 

コラム ヒッチコック 「マクガフィン」

 In fiction, a MacGuffin (sometimes McGuffin or maguffin) is a plot device in the form of some goal, desired object, or other motivator that the protagonist pursues, often with little or no narrative explanation. The specific nature of a MacGuffin is typically unimportant to the overall plot. The most common type of MacGuffin is an object, place or person; other types include money, victory, glory, survival, power, love, or other things unexplained.

 

The MacGuffin technique is common in films, especially thrillers. Usually the MacGuffin is the central focus of the film in the first act, and thereafter declines in importance. It may re-appear at the climax of the story, but sometimes is actually forgotten by the end of the story. Multiple MacGuffins are sometimes derisively identified as plot coupons.(Wikipedia)

 

マクガフィンとは、映画や小説で、登場人物にとって重要であるが物語を作る上で別の何かをそれに当てても問題はないという意味で、重要でないものたとえば、泥棒が盗みだすものが、宝石でも金塊でもそれほど問題ではない。スパイが盗み出そうとする密書が暗号になってもさして問題が無い。映画監督のアルフレッド・ヒッチコックが、自身の作品を説明する際にこの言葉をしばしば用いた。Wikipedia Japan)」

 

 しかし、ヒッチコックにとっては、 これまで見てきたように、ヒッチコックは自分の映画の中で言いたかったこと・訴えたかったことをあからさまに知られたくなかった。そのための煙幕として、スリルやサスペンスという調味料を使い、俳優の話題性で真実を隠した(ぼやかした)

 つまり、「マクガフィン」とはヒッチコックが自分の「犯罪」を隠すために行ったアリバイ工作のひとつだったのです

 ですから、サスペンスという手法も、スリルを生み出す映像もマクガフィンであり、俳優の演技でさえ同じこと。要は、金髪の美人と二枚目のイケメンという、ちょっと話題になる俳優であれば誰でもよかった。ヒッチコックが俳優に期待したのは彼等の演技ではなく、ヒッチコックの本当に言いたいことを隠すための強力な煙幕(マクガフィン)としての「存在感」であった。

 

 ヒッチコックの「マクガフィン」を探せ

 ヒッチコックの映画自体がマクガフィン、という場合もあります。つまり、ヒッチコックとしては自分が本当に言いたいことを述べた映画ばかりを作っていると自分の意図が「ばれて」しまうので、適当な作品をそれら肝になる作品の間に散りばめて、煙幕の変わりにする、という。

 

 ヒッチコックが製作した53本の映画すべてがマクガフィンと言えるかもしれません。。

 様々なジャンル(サスペンス、歴史物、戦争、スパイ、コミカル、等々)、様々なテーマ(愛、理想、社会の恐怖、エリートの恐怖、等々)を扱うことで、現代社会のもつ多様性をヒッチコックは教えてくれた。真実はひとつ(一種類)ではないという真理を、ヒッチコックは彼の全生涯・すべての映画を通じて私たちに伝えてくれたのです。

 

ヒッチコックのユーモア

俳優のへたな演技

・人畜無害の無個性なジェームス・スチワート演じるような(いわゆる古き善き)良心的なアメリカ市民。

・グレース・ケリーやドリス・デイ演じる、これまた無個性な、まるでバービー人形のような(これってキレイ?)女性登場人物。

・また彼らの、リアリティのない大袈裟な(わざとらしい)演技。

・迫力のかけらもない人対人のアクションシーン。

・(ライティングに工夫があるのかないのか?いわゆる)「総天然色」のあっけらかんとしたカラー映像。

・(いま見ればあまりにも)チープな(特撮)合成映像。

・サスペンスとラブコメとファミリードラマを混ぜ合わせた、最後は「めでたし、めでたし」て終わるストーリー展開。等々。

 

 

 

 

ヒッチコック年譜

1928年

2月『シャンパーニュ』 9月『マンクスマン』

7月7日、ひとり娘バトリシア誕生

 

1929年

2月、英国初のトーキー映画『恐喝』 年末から翌年初めにかけて『ジュノーと孔雀』

 

1930年

『殺人!』年末から翌年初めにかけて、『スキン・ゲーム』

 

1931年

『第十七番』

 

1932年

『リッチ・アンド・ストレンジ』

 

1933年

『ウィーンからのワルツ』

 

1934年

5月〜8月、『暗殺者の家』

 

1935年

1月〜3月、『三十九夜』

秋『間謀最後の日』

 

1936年

5月『サボタージュ』

 

1937年

『第三逃亡者』

10月〜11月『バルカン超特急』

8月12日、ヒッチコック夫妻、アメリカ旅行

 

1938年

9月〜10月『巌窟の野獣』

 

1939年

3月、一家でハリウッドに渡る

9月『レベッカ』(1940年のアカデミー最優秀作品賞を受賞)

9月3日、ドイツがイギリスに宣戦布告

 

1940年

3月〜5月『海外特派員』

9月〜11月『スミス夫妻』

7月10日、ロンドン大空襲

 

1941年

2月〜7月『断崖』

11月〜翌年初め『逃走迷路』

『レベッカ』がアカデミー最優秀作品賞受賞。最優秀監督賞ノミネート

 

1942年

6月ごろ〜9月ごろ『疑惑の影』

9月26日、母エマ死亡(79歳)

 

1943年

7月〜11月『救命艇』

 

1月4日、兄、ウィリアム死亡(50歳)

1944年

7月〜10月『白い恐怖』

 

1945年

10月〜翌年の2月『汚名』

 

1946年

12月〜翌年5月『バラダイン夫入の恋』

 

1947年

トランスアトランティック・ピクチャーズ社設立

 

1948年

1月〜2月『ロープ』

夏ごろ〜11月『山羊座のもとに』

 

1949年

6月〜9月『舞台恐怖症』

 

(1950年代は、ヒッチコックの黄金時代。さまざまな円熟期の作品が量産された。)

1952年

1月、娘バトリシアが結婚

8月〜10月『私は告白する』

3-D映画(立体映画)が始まる

 

1953年

7月〜9月『ダイヤルMを廻せ!』(3D映画)

10月〜年末『裏窓』

1954年

6月ごろ〜8月『泥棒成金』

10月ごろ〜11月『ハリーの災難』

 

1955年(昭和30年)

4月20日、アメリカ合衆国に帰化

4月〜7月『知りすぎていた男』

TVシリーズ『ヒッチコック劇場』開始

12月12日に来日

 

1956年

3月〜6月『間違えられた男』

 

1957年

1月、ヘルニア入院

3月、胆のうと胆石除去の手術

9月〜12月『めまい』

 

1958年

8月〜翌年初め『北北西に進路を取れ』

4月中旬、ゴールデン・グローブ賞(年間最優秀番組賞)受賞

 

1959年

4月18日、アルマが子宮頸部ガンで緊急入院

11月〜翌年1月『サイコ』

 

1962年

3月〜夏『鳥』

 

1963年

9月〜翌年2月『マーニー』

 

1965年

11月〜翌年2月『引き裂かれたカーテン』

3月7日 第12回マイルストーン賞授与

 

1966年

夏、渡欧ケンブリッジで講演

トリュフォーインタヴュー

 

1968年

10月〜翌年『トパーズ』

4月、アーヴィング・G・タルバーグ賞受賞

 

1969年

9月5日、フランス芸術文化勲章を授与される

 

1971年

6月、フランスレジョンドヌール勲章を受ける

夏ごろ〜10月、『フレンジー』

アルマが倒れ、半身不随なる

 

1974年

体調をくずし、心臓にペースメーカーを埋め込む

3月〜7月ごろ、『ファミリー・プロット』

 

1976年

6月、フランス芸術文化勲章最高位「コマンドゥール」を受ける

 

1979年

3月、アメリカ映画協会から生涯功労賞授与

 

1980年

1月3日エリザベス2世よりナイトの称号を授与

4月29日、腎不全により死去(80歳)

 

 

 

あとがき

 ヒッチコックの危惧を、いかにも現代的な娯楽映画にして見せてくれる映画が、別の映画監督によって、最近でも作られている。

 

 1984年の「Once Upon a Time in America」や1999年の「Matrix」という映画は、市民のために作られた道具であるはずの「役人・政治家・警察」という社会装置が、システムとして互いに連携することで、逆に市民を脅し、社会を支配しているという現実を教えてくれている。

 1920年代には、ギャングと同じくらい市民から批判を受け、ある程度人間的であった彼ら社会装置が、20世紀後半に発表された「Matrix」では、装置自身が自己増殖し、完全に人間の批判やコントロールから逸脱(暴走)するという、近未来における人間社会の姿が描かれている。

 

 ギャングやテロリストではなく、市民を守るはずの社会装置が人間を襲う。

  1929年製作の「ゆすり」では、厳格な警察官といえども、自分の恋人の殺人を隠蔽するという、ある意味で人間らしい心を持っていた。

 だが、やがてこの社会装置は、より大きなシステムの中に完全に組み込まれ、コンピューター化し、人間の心など持たない冷たい機械的な装置として、いまや暴走し始めている。

 

 将棋やチェスの世界で、もはや人間はコンピューターに勝つことができなくなっている。

 一方で、人間はコンピューターの方が確実で早くて便利であるという理由で、将棋やチェスだけでなく、人間生活全般にわたるノウハウが、世界中でこの装置にインプットされ、それぞれの装置は世界的規模でネットワーク化されつつある。

 だが、やがてこの最も信頼できる人間の僕は、ある日突然、狂い出すかもしれない。今まで餌を与えられて太らされ、人間の食用にされてきた鳥たちが、今度は逆に人間を襲って(ついば)という映画のように。

 それは、「狂う」のではなく、ものごとの流れとして「必然的」といえるのだろうか。

 

 「鳥」(1963年)は、ヒッチコック映画にしては珍しく、ハッピーエンドではない。「終わり」のない終わり方であり、それ自体がサスペンスとも言えるほど、恐ろしい終わり方なのである。まるで「『鳥の恐怖』は続くだろう」と、ヒッチコックは私たちに語りかけているかのようだ。

 

 ヒッチコック映画とは「たかが映画」ではなく、「とんでもない映画」だったのです。

 

 私たちが気がつかない世の中のおかしな仕組みや社会のを、子供のよう純真な感性で感じ取り、それを大人たちが楽しめるようなドラマにし、スリリングな映像で見せてくれたヒッチコック。かれこそ、熟練した船乗りのような智恵とガッツを持つ、永遠の若者でした。

 

 「私は若者を支持する。私は22歳で最初の脚本を書き上げ、25歳で初めて映画を監督した。だから私は若さを賞賛する。周りは私を70歳だというが、そんなものはとんでもない嘘だ。私は35歳の2倍なんだ。ただそれだけ、35歳の2倍」

    I am pro-young.  I wrote my first script at the age of 22 and directed my first film at 25.  So I’m for the young.  And when people today say I’m 70,  I say that’s a confounded lie.  I’m twice 35,  that’s all. Twice 35.

Sir Alfred Joseph Hitchcock

 

 

 

                                                        2014年 3月 10日

                                                                   平栗雅人

 

 

 

 

 

ヒッチコックの社会学 ①

かくて日本は戦争に破れた」ヒッチコック映画に見る日本とイギリスの民度の差 

 

自由な言論

 ヒッチコックの映画では、警察官や刑事、検事や裁判官、弁護士や医者、聖職者たちきわめて人間的に描かれている。警官は街の暴力団と同じくらい、庶民に対して横暴だし、裁判官もセクハラしたり弁護士も被告の女性に恋したり、法律の知識がある法律家でも、人間的には全く頼りないマザコンだったりする。

 驚くべきことは、1930~1940年代にこれら日本で言えば「お上」を痛烈に批判し、弁護士・医者というエリートにも容赦しない映画が、英米では作られていたということ。日本では、かの悪名高き「特高」「秘密警察」「憲兵」が、小林多喜二を警察署内で惨殺していた時代です。

 批判の内容などどうでもいい。当時の英社会には、恥ずかしげもなく理想を語る一方で、権力を批判したり皮肉ったりできる自由な空気があった、ということに驚かされる。

 

 1929年に始まった大恐慌による大不景気の中で、世界中が国家の崩壊をくい止めるために、程度の差こそあれ、ファシズム国家になっていた。その時代、誰でも自由にものが言えた英国と米国が、完全なファシズム国家のドイツと日本を打ち破った。

 

 科学技術では世界一のドイツ、優秀で勇猛な一兵卒の質では世界一の日本。それが、ヒッチコック映画に見る、ジョークばかり言って、国家への忠誠心よりクリケットや野球の試合の方が大事というくらい、たいして真剣ではないジョンブルやヤンキーに負けた。

 いくら忠誠心が強くても、ロボットのように上からの命令で突撃を繰り返すしかできない軍隊は、上も優秀なら、最低辺の兵隊までもが自分の頭で自由にものを考え、戦い方を自分で工夫する民主主義が浸透した国に勝てなかったのだ。

 

 アメリカは物量で勝ったというが、あれだけの広大な国土を短期間で開拓し管理する力は「民度の高さ(国民の自由闊達な精神)」によるのだろう。日本の「役人主導の民主主義?」では、せいぜい狭い日本くらいで、大東亜共栄圏などという広大な領土をマネージメントする能力など「日本」にはなかった。もし日本にアメリカ以上の国土や資源、人材がいてもやはり局地戦には勝てても戦争には勝てなかっただろう

 

 私は大学時代、日本拳法という武道をやっていました。当時、こういった武道系のクラブというのはどこも封建的で、まさに大日本帝国の軍隊そのものでした。我が日本拳法部、個人では全日本に出場するくらい強い選手が何人もいたのに、団体戦では一度も優勝できなかった。ところが、民主的な雰囲気になったある時期、全日本クラスの選手もいないし、デコボコのメンバーであったが、創部20年にして初めて優勝することができた。

 

 個人的な技術やリーダーの資質といった要因以上に、全員の民度(一人一人が自分の頭で勝つ工夫をして努力すること)が「幸運の女神」を引き寄せたのではなかったか、と今でも思っています

 

ヒッチコックの社会学②

 かくて日本は戦争に破れた」ヒッチコック映画に見る日本とイギリスの民度の差 

 

国民を大切にするイギリス・使い捨ての日本

 1940年のダンケルクの戦いで、イギリスの首相チャーチルは、「ドイツと戦わず、武器弾薬を捨ててイギリスへ逃げて帰れ」と、全兵士に命令した。そして、当時フランスに追い詰められていたイギリス軍兵士35万人全員を救助する計画を立てた。イギリス人は、戦車や船は造れるが、人間は失いたくない、と考えたからだ。作戦名はダイナモ。イギリス中のあらゆる船舶(軍艦はじめ、客船・漁船・艀はしけまで)を動員して、一大撤退作戦を敢行した。彼らは、その後のバトルオブブリテン(英国本土防空戦)において、立派に祖国を守った。

 

 また、1941年のシンガポール攻略戦における日本軍との戦いでも、イギリス軍は勝ち目がないとわかると、10万人の兵士全員が降伏して日本軍の捕虜になった。そして、1945年の日本の降伏と同時に開放され、生きて祖国へ帰れたのである。

 

 一方、大日本帝国の場合、「生きて虜囚の辱めを受けず」。敵の捕虜にならずに自決せよと、末端の兵士に命令していたもっと恐ろしいのは、太平洋戦争での戦闘における日本軍の死者は230万人にのぼる、そのうち餓死で死んだ兵隊が140万人。なんと60%の兵隊が、日本から食糧が補給されずに、戦地で飢え死にさせられた。(藤原彰著 『餓死(うえじに)した英霊たち』 青木書店 2001年5月発行

 つまり、敵であるアメリカ人にではなく、同じ日本人によって殺された、ということ。日本の兵隊さんたちには、玉砕(全員討ち死に)か餓死しかなかった。

 日本という国は、どうしてまあ、同じ日本人でありながら、こうも国民をサランラップやアルミホイルの如く使い捨てにできるものか。日本には上から目線の「慈悲」はあっても、同じ仲間として人間を見る「愛」がないからなのだろうか。

 

 大日本帝国の戦争指導者(高級公務員)は、自分たちが住む日本本土に敵が上陸するという時には、いとも簡単に白旗を掲げ(無条件降伏をし)自分たちだけは生き延びた。

 「武士や百姓・町人たちで戦わせて、貴族(公務員)は生き残る」という平安時代からの日本の伝統は、やはりこれからも続くだろう。 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヒッチコックの社会学③

 ヒッチコックと黒澤明

「ハリーの災難」1956年   監督 アルフレッド・ヒッチコック

 (「黒澤明 知ってる ?」より)

 

 この映画はヒッチコック版「羅生門」である。

 黒澤明の映画「羅生門」(1950年)では、ひとつの殺人事件を巡り、それを目撃した人間たちの嘘をとおし、「真実とは何か」という人類永遠のテーマを観客に投げかけた。ヒッチコックは、映画「ハリーの災難」で英国人流に、このテーマを料理した。

 

 美しい田園風景の中に転がる一人の男の死体。彼の名はハリー。この死体をめぐり、

四人の男女が繰り広げる「ドタバタ喜劇」という映画である。

 「ハリーの災難」とは「羅生門」のパロディなのか、はたまた、東洋の巨人・黒澤明(の提議したテーマ)に対する、西洋の巨匠ヒッチコックの(真面目な)挑戦なのか。

 

 事実として死体はある。

 だが、この死体という事実をめぐり、いま生きている人間が様々な悲喜劇を引き起こ

すというだけのこと。「真実の追求」など、どうでもいいことなのだ。

 英国人はみな自分のことで忙しい。人の死など、回りの人間からすれば、何かに利用

する道具でしかない。乞食は死体が履いている靴を失敬し、医者は商売に利用し、坊主

は死体をお布施に変える。死体の前妻であった女性でさえ、次の男と再婚する法律上の

手続きのために、前夫が間違いなく死んでいるという事実だけが重要であって、それが

わかればもう、その「物」に興味はない。 

  事実(死体)とは、そこに居合わせた者たちによってその場で合意されれば、土に埋め

てしまう(真実として確定する)だけのこと。その死にどういう事情があったのか、あと

で議論することなど英国人にとっては時間の無駄。昨日の死体より今日のクリケットの

試合の方がよほど重要なのだ。

 そして、埋めてしまえば、死体は死体でさえなくなる。「死んじまったものはしょう

がない」。「真実」とはそんなものですよ、と。これが英国流サムライであるジョンブルの考え方なのである。

 

 四人が何度も死体を埋めたり掘り返したりする。それが死人である「ハリー」にとっ

て災難というわけだが、ここにも「真実というものの困った性格」を、ヒッチコックは

暗示している。

 つまり、「真実の追求」のために死体(過去)をいじくり回す愚かさを、見せているの

である。

 

この映画の宣伝のために、わざわざヒッチコックは来日1955年(昭和30年)1212している

「羅生門」を作った国に対する彼の思い入れがわかるではないか。

 

 

 

 

「羅生門」1950年 真実とはなにか

(原案は芥川龍之介の小説「藪の中」)

 

 時は平安時代。洛外(京都の郊外)で一人の男が殺された。犯人として逮捕された盗

賊と、殺された男の霊、男の妻、そして、死体の第一発見者の木こり。だが、検非違使

庁(裁判所)で語られる四人の証言は、それぞれ全く食い違っている。「ひとつの真実」

に対して「四つの異なる事実(証言)」がある。いったい、誰の証言が真実なのか。

 朽ち果てた羅生門の下で、この奇怪な話について語りあう木こりと僧侶、そして雨宿

りに来た男。雨が上がった空の下、「彼ら」が見たこの事件の真実とは。

 

 この世の中で、いったい「何が真実なのか」。

 人類永遠の問いかけともいえるこのテーマを、この時期、黒澤が映画にしたのには理

由がある。

 

十字架上の日本

 1933年(昭和8年) 日本は国際聯盟を脱退したが、前年の12月8日、日本の外務大臣松岡洋右は、国際聯盟の総会において、こういう趣旨の演説を行った。

「あなたがた(日本以外の当時の聯盟加盟国)は、日本を十字架にかけようとしている。

それはまるで、2000年前のイエス・キリストのようだ。かつて人々はイエスを悪者であ

ると決めつけ、彼を殺した。しかし今や、あなた方イエスを死刑にした人間の子孫はそ

れを後悔し、逆にイエス・キリストを神の子として崇めている。現在、日本はあなた方

から非難され孤立している。しかし、この日本がいつか必ずあなた方に理解され、受け

入れられる日が来るに違いない。」

 

 この演説は、総会では総立ちで拍手喝采されたが、翌日の海外の新聞はあまり好意的

にその内容を伝えなかった(痛いところを突かれたのだから当然であろう)。

 しかし、日本では「松岡、よくぞ言ってくれた」と、国中が沸いたという。1910年(

明治43年)生まれの黒澤は、当然、この時のことを鮮烈に覚えていたはずである。

 

極東軍事裁判(東京裁判)

 1946年(昭和21年)から始まり、1948年(昭和23年)11月4日に判決がくだり、同年12月23日、A級戦犯七人が絞首刑となった。

 皇太子(平成天皇)の誕生日に死刑を執行するとは、やってくれるじゃないか、という

暗い気持ちで日本中が落ち込んだ日であった。「羅生門」の公開が1950年(昭和25年)ですから、昭和23年というのは黒澤たちが映画の構想を練っていた時期で

 

何が真実か

 何が真実なのか。それがわからぬままに、人が人を裁くということができるのか。

 被害者も加害者も、そしてそれを端(はた)で見ていた第三者までもが嘘をつくのが人間の世界。真実など、どこにもないこの世の中で、いったい誰が、何をもって真実とし、

神のごとくに人や国を裁くことができるのか。

 黒澤は、第二次世界大戦が終了してまだ間もない当時、日本人が口に出して言えない

この胸の内を、日本を代表してこの映画で訴えたのである。

 映画「羅生門」の芸術的価値を見いだし、そこに込められた日本人の心を見抜き、ヴ

ェネチア映画祭を通じて世界に紹介してくれたのは、同じ敗戦国のイタリア(人女性)

であったという。

四人の証言

 この映画が欧米人の心の琴線に触れた理由は、もう一つある。

 映画「羅生門」に登場する四人(木こり・武士・その妻・盗賊)は、一つの事実(殺人)について、それぞれの立場から証言した。そして、それはすなわち、キリスト教の聖書に

おける「四人の証言」と同じなのである。

 聖書では、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネという四人の人間が、イエス・キリストと

いう一人の人間(神の子)が殺されるまでの様子を証言した。それが「四つの福音書」で

あり、聖書の中核となる書である。もちろん、「四つの福音書」が嘘だというのでは

ない。一つの事実に対して四人の証言があるのだ。

 

 原案である芥川龍之介の小説「藪の中」に、聖書に関する記述はない。

 また、黒澤自身も子供の頃、毎朝剣道の稽古に行く時に、かならず八幡神社にお参り

していたくらいだから、「神」の意識は強かったであろうが、クリスチャンではなか

った。

 しかし、黒澤は「羅生門」の「四人の証言」という設定によって、聖書を日々の(精神

的な)糧とする欧米人の心象に強く訴えることができる、と考えた。すなわち、この映

画を見たキリスト教徒(欧米人)は「四人の証言」に必ず反応するはずだ、と。

 

 黒澤はこの映画を、ただの文学的・芸術的作品として作ったのではない。

 アメリカの映画監督ジョン・フォードが1930年代のアメリカ社会に対し「怒りの葡

萄(1940年)」で抗議したように、日本人黒澤明は1940年代の日本人の強い思いを、映

画「羅生門」に込めて全世界に訴えたのである。

 

 

武道家黒澤明の見た真実         「五番目の証人」

 殺人現場を直接目撃した証人として、盗賊、侍とその妻、そして木こりの四人がいる

。 

 だが、じつはここに第五番目の証人がいる。

 それは、物語の最後に登場する、門の下に置き去りにされた赤ん坊である。この赤子

こそ、将来、この事件の真相を究明し「真実」を見いだしてくれる「時代の証人」とな

るのだ。

 

 歴史というものが、「生きた証人」が存在する間は本当の歴史にならず、百年、千

年経ってからようやく真の歴史となるように、やがてこの赤ん坊に象徴される子々孫々

の時代となり、彼らが冷静に、客観的に事実を評価できたとき、真実は明らかになる。

 木が千年・二千年経って、ようやく木としての存在と威厳を示せる姿となるように、「

事実」というものもまた、時間という養分を取り込みながら、「存在感のある事実(=

真実)」となるのだ。

 

 柔道や剣道、日本拳法といった武道の試合は、神前(神棚を前にして)で行われる。大衆という観客以前に、先ず「神」という証人がいる。そしてこの証人は、武道における「

コンマ一秒の真実」を確実に見究めることができる。しかも、無限の過去から永遠の未

来にわたり人間を見守る、不滅の証人である。

 武道家黒澤は、この「神への思い」を「赤ん坊」に託したのである。

 

日本人の証明

 これは日本の俳諧における「連句・連歌」である。平安時代に記された説話「今昔

物語」、大正時代芥川龍之介によって書かれた小説「藪の中」、そして昭和における黒

澤明の映画「羅生門」。三人の作者が、日本民族の時間の流れの中で、ひとつの事件を

追い続ける。それぞれ微妙に異なる三つの物語が、序・破・急というように、連続した

物語となる。説話「今昔物語」で始まり、小説「藪の中」でつなげ、映画「羅生門」で

完結する。三人の日本人芸術家による連係プレーが、一千年の時空を超えて一つにつ

ながったのだ。

 

 千年かけて一つの物語を作り上げるというのは、時間の神を信じ、縄文時代の昔から

連綿として同じ心を引き継ぐ日本人でなければできない、一大文学なのである。

 

 

アメリカ映画「十二人の怒れる男    1957年」 とはキリスト映画

 父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、十二人の陪審員が議論を戦わせる物語。十一

名が有罪(死刑)を支持するなか、一人の陪審員の熱意ある説得により、全員が真剣に討

議をすることで、次第に事件の真相が解明されていく。

 

 十二人の陪審員が裁こうとしているのは「イエス・キリスト」であると考えれば、人

を裁くということがどれほど重みのあることなのか。それをこの映画は私たちに投げか

けている。

 

 イエス・キリストという男は、本当に正しく審議されて「死刑」になったのか。磔(は

りつけ)にされたイエスに対する人々の評価というものは、本当に確信・裏付けのある

ものだったのか。当時、イエスの死を決定した人々とは、もしかしたら、この映画に登

場する陪審員のように自分の個人的な事情(好み)から、物事を正しく見ず、早急に判決

を下したのではなかったのか。

 

 この映画では、陪審員たちの様々な個人的事情が明らかにされる。早く野球の試合が

見たいから評議を終わらせたいという男。子供が自分に反抗して家出した、その憎し

みを、いま自分たちが裁こうとする青年にぶつけようとする父親。会社の経営が思うに

任せない為に苛立っている経営者。

 

 当然ながら、人間は誰もが個別の事情をかかえて生きている。しかし、人を裁くとい

うのは、そういう人間的な思惑で行われるべきではないはずだ。事件の証人たちが「自

分に都合良く目にした事実」を、陪審員がこれまた、自分に都合の良い証拠として受け

入れ、機械的に評決を下すのでは、リンチ(私刑)と大差ないではないか。

 

 名優ヘンリー・フォンダ扮する男の職業は建築家、即ち「大工」、つまりはイエス・

キリストの父親であるヨセフと同じ職業である。彼は他の陪審員と違い、この事件を他

人事として冷たく突き放さず、同じ人間としての優しい視点で、容疑者を見ている。

 そして、「Architect」建築家らしいというか、アメリカ人らしい、論理的な話の進め方をする。

 

 黒澤明の「羅生門」を観たあとでこの映画を見れば、二つの映画が同じテーマを取り

上げていることがよくわかる。「何が真実なのかのわからぬままに、人が人を裁ける

のか」。人間ではなく国を裁く時でさえも、「裁く国の事情」に引きずられ、事実を事

実として見ようとせず、本当に正しく審議しないということがあるのではないか。

 

 第二次大戦の勝者であるアメリカ人が作った「十二人の怒れる男」という映画は、東

京裁判やその前に行われたニュールンベルグ裁判に対する、彼ら「裁いた側」の反省が

込められている、と見ることもできる。その意味で、この映画はフェアーを尊重するア

メリカ人(ハリウッド)らしい映画といえるだろう。

 

 「人間は結局、真理に行き着けないのではないのか」という、人類永遠の疑問・諦め

に対し、アメリカ(映画)と日本(映画)では、異なる結論を提示しているのが面白い。

(真実に行き着くことはできない、と)建築家は決して諦めない。真実を追究する意志を

放棄せずによく話し合えば、今、ここで必ず真実は見えてくる、と懸命に努力する。ア

メリカ人の中には、こういう人間がたまにいるものだ。彼を中心に人々の心が次第に変

化していく。その間の手に汗握る人々の討論、やり取りの凄まじさは、まさにアメリカ

映画。エキサイティングでドラマチックである。

 

 一方、日本映画「羅生門」では、「時間」を持ってきている。

 春夏秋冬という季節の変化のなかで、木や草の色、姿・形、匂いも変化する。春の山

は萌木色、夏には濃い緑、秋には紅葉し、冬には枯れたり雪で真っ白になる。風の匂い

やその肌触りも四季折々で違う。この日本の四季と同じで、人の心もまた、長い時間の

中で変化していく。人間の常識や価値観というものも、季節(自然)の変化と同じように

変るもの、という意識は、数万年の長きにわたりこの国に住んでいる私たち日本人の身

体に、無意識の記憶となって染みついている。川のようにゆっくりと流れる時間を意識

して日々の生活を営んできた日本人には、時間という神がいる。季節を決めてくれる「

時間に心を委ねる」ことができるのが日本人なのだ。

 

 武道家であった黒澤は、人間が必死になって戦う(議論する)真剣勝負の大切さをよく理解すると同時に、戦う二者以外の「存在」についても、強く意識していた。なにしろ、

日本には時間の神を含め「八百万の神々」が存在するのだから。

 

 黒澤は映画「羅生門」で、木こりに抱かれる赤ん坊に神を象徴させることで、時間の

淘汰による正しい判断(真実)に期待した。日本人らしい静かなる結末によって、この物

語(事件)を締めくくることにしたのである。

 

○「羅生門」は、1950年のヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞した。

そして、それから30年後の1982年、今度はヴェネチア映画祭50周年記念行事で、歴代グランプリ作品中最高の作品(獅子の中の獅子・栄誉金獅子賞) に選ばれた。

○  2001年、国際バレーボール連盟は、この百年間で最も活躍したチーム(二十世紀最優秀チーム賞)に、1964年のニチボー貝塚(東京五輪日本チーム)を選んだ。

これら2つの事実は、まさに「時間という証人」の存在を示しているといえよう。