去年(2017年)2月、パソコンから飛行機のチケット予約をしていると、私の年齢が画面に表示された。
そこで初めて、私は60歳になっていたことを知った。
そして、こう思ったのです。
「60年というオレの人生は、なんて楽しかったんだ。」
「よーし、来世もまたこの平栗雅人という人間として生まれ変わり、今度は少し違った、もっと面白い人生にしてやるぞ」と。

ですから、今(2018年)の私の人生とは、いままでの人生のお復習い(おさらい)です。
毎日、事あるごとにこれまでの人生を思い返すことで、自分の生きた60年間をしっかりと自分の心に焼き付けようとしているかのようです。

善きにつけ悪しきにつけ、「オレはオレなんだ」という自分の存在感に確信を持つことができれば、来世で再びこの平栗雅人という人間に戻ってくることができる。
そうして、この平栗雅人という人間を何度もやっているうちに、最終的に行き着くべきところへたどり着けるだろう。


つまり、この私の人生は60歳までで、後の人生は残滓、残りかすのようなもの。
しかし、この60年間の人生を何度も繰り返すことができれば、なにも80歳や90歳まで長生きする必要はない。楽しかった60年の自分の人生を何回でも繰り返すことができれば、それが幸せというものではないか、というわけです。



中国の詩人賈島
「李凝の幽居に題す」
      
    閒居(かんきょ)鄰並(りんぺい)少(まれ)に
    草徑(そうけい)荒園(こうえん)に入る
    鳥は宿る池邊(ちへん)の樹
    僧は敲(たた)く月下の門

  橋を過ぎて野色(やしょく)を分かち
    石を移して雲根(うんこん)を動かす
    暫(しばら)く去りて還(また)此(ここ)に來たる
    幽期(いうき)言(げん)に負(そむか)ず

小さな橋を渡っただけで別世界
庭の小さな石を動かせば、天空に浮かぶ巨大な雲も移動する。
ミクロを感じる心は広大無辺のマクロの世界を見ることができる。
「何億、何光年」の時間と空間が過ぎて、私は再びここに来る。
捉えどころのない時間はしかし、(ここに来るという)約束を違えることはない。

2000年前の中国人は、まだ血が濃かった所為か、自分が再び自分としてこの場所に戻ってこれるという予感・実感を持つことができたのでしょう。
「英雄の器」で芥川龍之介が述べたように、運命と善く戦う者は誰でも、天に存在を認められた「英雄」になれる。
項羽や劉邦ばかりが英雄ではない。(乃木希典のような「英雄に仕立て上げられた人間」など、「還此に來たる」ことはない、ということの裏返し、ということでもあります)


あるいは、
芥川龍之介の小説「尾生の信」

「・・・尾生の魂は、ほのかに明るんだ空の向うへ、うらうらと高く昇ってしまった。
 それから幾千年かを隔てた後、この魂は無数の流転を閲(けみ)して、また 生を人間(じんかん)に託さなければならなくなった。それがこう云う私に宿っている魂なのである。だから私は昼も夜も漫然と夢みがちな生活を送りながら、ただ、何か来るべき不可思議なものばかりを待っている。ちょうどあの尾生が薄暮の橋の下で、永久に来ない恋人をいつまでも待ち暮したように。」


2016年の日本映画「君の名は。」
主人公の三葉と瀧は、共に日本人としての血が濃い日本人だ。
だから、「何億、何光年分の物語を語る(RADWIMPS)」ことができる。
長い長い時間と空間の壁を乗り越えるだけの、いかにも日本人らしい「静か、だが強烈な記憶」を頼りに、再び自分の人生に戻ることができた。そして、「何億・何光年」の記憶を辿ることで、自分たちの運命を変えることができたのです。

2018年7月18日
平栗雅人