実践日本拳法純粋理性批判 平栗雅人
          2020年08月11日(火)V.01.06
               






文字数 2,885 
公開日 2020年7月27日 15:51
最終更新日 2020年08月01日












目次

目次                                                                               2
はじめに                                                                           4
大学日本拳法による「コギト・エルゴ・スム」  8
① 日本拳法純粋理性で鍛える                                                      9
② 日本拳法純粋理性で戦う                                                       10
③ 日本拳法純粋理性で学ぶ                                                       11
④ 日本拳法純粋理性で楽しむ                                                     12
⑤ 日本拳法純粋理性で演じる                                                     13
名語録                                                                            14









はじめに
道場での日本拳法とは、下は幼稚園・小学生においては、礼儀作法や前向きな心を上から教えてもらうことであり、中高大、そして社会人になってからの道場日本拳法とは、前向きな心から一歩踏み込んだ戦う心と、その技術を効率よく教わる場であろうと思います。

一方、40年前に私が経験した大学日本拳法とは、毎日「押忍」「押忍」と、不条理でくだらない、バカバカしいことをやり、悩んだり怒ったりしながら、自分で自分を磨き学ぶ場でした。
どれもこれも、楽しいとか心が和む、なんて思い出はありません。一歩間違えば大けがをするどころか死んでいたかもしれないような、ギリギリのところでの(正しい)判断と行動が自己責任として各個人に求められる世界でした。
指導する四年生は、防具練習の時には必ず「相手を殺すつもりで殴り、蹴りを入れろ」と教え、「気を抜くとけがをするぞ!」と警告していました。
実際、箸とペンよりも重いものを持ったことがないくらい平和で温厚なある一年生に彼ら(の一人)が大けがをさせ、彼ら四年生自身も、全員が.それぞれ練習中に大けがをしたという事実からは、まさに彼らは身を以て「真剣味のない練習の恐ろしさ」を体現していたといえるのかもしれません。
 そんな狂った世界の中で、彼らにけがをさせられないために、私自身は人一倍、真剣勝負(殺し合い)の感覚で防具練習をやっていました。
技術を教えてもらう、指導を受けるなんて、町の道場での話。あの時の私たち下級生は、自分で自分を救うしかなかったのです。

「大けが」とはこんな話です。
防具を着け始めた四月、ある一年生が四年生の面突き(アッパーカット)をくらい、面の下の金具で骨が見えるほどアゴがぱっくり割れた(十数針縫った)時でさえ「面の付け方が悪いからだ。」と「怒られて」いました。しかも、最低一週間は、なるべく口を動かさないようにしなければ縫合部分がずれて、きれいに傷が塞がらないというのに、翌日も防具練習以外、皆と一緒の練習をさせられ、三日後には「杉山の面は殴らないように」ということで、再び防具を着用して練習をさせられていました。
そんな狂気ともいえる4・5・6月の三ヶ月間とは、私にとって、いかに上級生に殴られずに、逆にこいつらをぶっ飛ばしてやるか、と必死になっていた時期でした。チームのために頑張ろうとか、自分を高めようなんて崇高な気持ちは微塵もない。オレもあんな大けがをさせられないように、という「奮起」です。
しかし、この単純で純粋な「生き残る」という気持ちが、私の場合、理性の研鑽につながったのです。

そんな私にとって、ランニングや筋トレという、体力増強・筋肉の強化とは、すべて防具練習のためにある、という理解でした。
防具練習でけがをしない、防具練習でへたらない。防具練習を防具練習として完全に消化できるようにするために、体力をつけ筋力を増強する。防具練習で生き残るための体力、筋トレですから、それ自体を目的にする余裕などなかった。
 近年、なにかのインタビュー記事で、野球のイチロー氏が「筋トレなんて必要ない。」という趣旨のことを仰っていましたが、同じような意味合いであろうと思います。

大学日本拳法によって純粋理性を鍛えることができたということは、拙著「思い出は一瞬のうちに」第8章に書いたとおりですが、四十年前の東洋大学日本拳法部という世界が、あまりにも不条理・非合理・非民主的、早い話が、かくもバカバカしい社会であった、という負の環境もまた、私にとって理性の研鑽に利用できたと言えるかもしれません。

この環境は、私たちが二年生になった時も基本的には同じでしたが、私自身は、防具練習における面突きの一瞬に魅力を感じていたので、結局、4(5)年間、日本拳法を続けることができたのかもしれません。











大学日本拳法による「コギト・エルゴ・スム」
○リアリティ(現実)の追求
いつでも・どこでも、嘘にだまされず虚(ヴァーチャル)に惑わされず、現実を見る心を磨く。相手の言葉や動作を自分の心の鏡に写し出し、それが実像なのか虚像(ヴァーチャル・イメージ)なのかを瞬時に判断する力をつける。自分に投げかけられた言葉の裏にある真意、写し出された映像の裏に仕組まれた真の意図を知る能力。
いま考えれば、私はそれを無意識のうちに、毎日の日本拳法で錬磨鍛錬していたわけです。

日本拳法純粋理性とは、自分と相手の拳が交錯する「面突きの一瞬」で鍛えた純粋理性のこと。知識・常識・法律といった、人間の考え出した「妄想」から解放された、真の人間(縄文人)としての、混じりっけのない理性。

そして、そうやって真に自分の純粋存在を自覚できた者だけが、たくさんの違う人生を、同じ自分として楽しむことができる。これこそが「コギト・エルゴ・スム」「我思う故に我あり」ということではないかと「私は思う」のです。

① 日本拳法純粋理性で鍛える
面突きの精神で理性を鍛える
○上野駅「窓からの乗車はおやめ下さい」事件
○アメリカ 雨のドライブ

相手と戦うのではなく、自分自身の内で戦う
自分で自分と戦うことで自分を鍛える






② 日本拳法純粋理性で戦う
相手のある戦い
○機内食牛肉事件
○トルコ、クレジットカード支払い事件。
○葉山花火大会事件
弁天小僧のごとく。羽織っていた衣をかなぐり捨て。
○ナポリのホテルマンとの戦い
○ローマアイスクリーム屋ただ食い事件
○青森カッパ温泉刺青(入れ墨)事件




③ 日本拳法純粋理性で学ぶ
日本拳法「純粋理性という心の鏡」に映ったもの・人・諸芸・書能から学ぶ。
○大学の授業・単位→ 日本拳法純粋理性で学びたくないもの


○新婚旅行 ドイツ ニュールンベルグ
元ナチス兵士の涙。


○阿波踊り ドイツ人親子との対話
広島・長崎を忘れない

○芥川の小説
○講談社ブルーバックス 
④ 日本拳法純粋理性で楽しむ
面突きの精神で人生を楽しむ
○歌舞伎町・絨毯バー事件
○新婚旅行 雪中行軍ビースの教会
(牛に引かれて善光寺参り、ならぬ)観光バスに導かれて、教会参り。
○ナポリの戦い
○ローマの戦い
○ベルギー ブリュッセル 夕食での、妻の涙。
○2017年、欧州バス旅行での南米チリ人女性との対話
⑤ 日本拳法純粋理性で演じる
面突き=相打ちの精神で「自分オリジナルの」人生を演じる
○商社に入る
○商社を辞める
○南米に渡る
○坊主になる
○坊主を辞める
○本を書く

○クリスマスパーティーでの独唱




名語録

「よしわかった。オレの家に来いよ。」
「蹴り入れろ。」
「オレの一番嫌いな職業か。」
「ああ、お前○○の友達か。」
ただ一度だけ見た、先輩の見下したような態度。