カントと武蔵と日本拳法 第一部 「アキレスは亀に追いつけない」のか ? V 1.1

「アキレスは亀に追いつけない」のか ?
(日本拳法を楽しむために)

 ゼノンのパラドックスという「思考の鍛錬」には、いかに俊足のアキレスであっても、スタートした時点で先を行く亀には永久に追いつくことができない、という話があります。
 大学で日本拳法を始めた者は、どんなに頑張っても小・中・高校時代から日本拳法をやってきた者に追いつくことができないのでしょうか。

 古来、西洋では「学問に王道なし」と言われ、中国の孔子は弟子の子貢をして「行くに路によらず(近道をしないで天下大道を行く男です)」と(高く)評しました。
 大学日本拳法の世界で、王道や近道によらずして日本拳法が強くなる道は、はたして「組み打ち」だけなのか。

 だが、19世紀に生まれたドイツ参謀本部というThink Tank(知性)は時の英雄であるナポレオンという天才を凌駕したではなかったか。
 12世紀、モンゴルの襲来を跳ね返したドイツ騎士団由来のガッツと、18世紀、ドイツ人カントが明らかにした「純粋理性」によって、様々な事象・現象を洗い直し、本来、絶対に追いつけないはずの天才に追いつき、追い越したという歴史がある。

 800年前には、やはりモンゴルの襲来を跳ね返した日本武士団(のガッツ)が存在し、その400年後には、日本人的なる「純粋理性」を極めることで戦いの人生を勝ち抜いた偉大な男、宮本武蔵が存在したではありませんか。

 そして、現代における日本拳法という武道もまた、日本人宮本武蔵やドイツ人カントの示した純粋理性に「日本人らしく至る」ことのできる道として、その存在を高めてきています。更に、日本人である私たちには日本人由来のガッツは全員に賦与されている以上、私たちにもまた「ドイツ参謀本部」や宮本武蔵のように「理性で戦う」という道をたどることができるのです。 

 早い話が、たとえ大学から日本拳法を始めようとも、否、大学生であるからこそ、「日本人固有の理性」という観点から日本拳法を認識することによって、先を行く「天賦の才」たちに対抗することができる。
 大学生らしい理性と、(天才ではないという意味での)「凡庸の団結」によって、エリートたちに一泡食わせてやろうではありませんか。


「純粋理性」といっても、日本人にとっては決して難しいことではありません。それで飯を食う学者や、血的に純粋でない混血人たちが難しいといっているだけのことです。
 カントの「純粋理性批判」という本は、はじめから各種入門書など読まずに、真正面からぶつかれば、これほど味わい深い本はないというくらい、ジワッと心に響いてくる。日本拳法の心で少しずつじっくりと読んでいけば、気になる言葉や文章が少しずつ見えてくる。ラインマーカーでそういう部分を塗っておいて、一ヶ月後でも1年後でも30年後でも読み返してみると、その度ごとに自分の内なる(日本人的)理性が磨かれてくるだろう。

 さて、それはそれで置いておくとしよう。
 いまの私たちは、当面の(仮想)競争相手である「ナポレオン」や「北の湖」と戦わねばならないのですから、ここは一番、日本人が書いた「純粋理性批判」というべき宮本武蔵の「五輪書」に日本拳法の理性を求めよう。
 といって、「五輪書」に理性の何たるかが書かれているわけではない。純粋理性で戦った武蔵の心が書かれたこの書物に自分の心を接することで、自分の内にある、もしかすると武蔵以上に純粋なあなたの理性を見出すことができるかもしれない。

 

 以下に述べることを、日本拳法の技術ではなく理性として捉えることです。
 武蔵は各条項の最後に、必ず「よくよく吟味すべし」「よくよく工夫すべし」「よくよく分別有るべし」「よくよく鍛錬あるべし」の一言を加えました。

 これすなわち、人から教わる技術でなくして、自分自身の内なる理性に照らし合わせて「批判的に」理解せよ、ということなのです。

 


宮本武蔵著「五輪書」岩波文庫版から
P.61 太刀にかわる身
 よく自分の出番が来ると、試合場の円の外でピョンピョン飛び上がって四股を踏むようなことをする人がいます。床をならすドンドンという音の威嚇によって、自分の場で試合の場(雰囲気)を支配しようとする。
 太刀ではなく自分の身(自分の持つ雰囲気)によって、自分の立場を強化して相手を攻撃する。
 武蔵の場合は、敵よりも高い位置に立つとか、太陽を背にして戦うという場の取り方ですが、日本拳法は決められた試合場で行うわけですから、やはり武蔵が必ずやっていた「心の場」の方に着目すべきでしょう。
 自分の雰囲気・自分の個性で、敵と自分のいる空間を自分の色に染める。三段クラスになれば、体からにじみ出るその人の持ち味というものがありますが、たとえ三級でも、自分というものを存分に打ち出せばいいのです。
 宣伝ではなく発揮する。見せようとするのではなく、自分のスタイルを自分で自覚することでにじみ出てくる、自分しかない個性を自然のままに表現する。
 一般的に、下手は上手の場(スタイル)に飲み込まれてしまうものですが、たとえ三級でも、三段相手に「自分の拳法」をぶつけてやりましょう。

P.63 しうこうの身
 手先だけで打つ、足だけでボールを蹴るのではなく、身体全体で、体当たりする気持ちで打ち込み、蹴り込む。
 武蔵の世界では、腰を引いて手だけで太刀を振り回していては、やはり武蔵のいう「紅葉の打ち(P. 61)」により手首や二の腕を斬られ、太刀を落とし、結果として殺されてしまうことになる、ということ。
 日本拳法では、殺されることはないが、突きや蹴りの一発に全体重をかけるくらいでなければスピードが乗らないし、身体でぶつかる気魄で打つ・蹴るからこそ、敵は自分から後ろへ退いてしまう。その結果、自分にとってちょうどいい間合いになるのです。

 よく明治の選手が手先だけで、ものすごいスピードと破壊力のパンチを繰り出すのを見ることがありますが、あれは子供の時から身体全体で打つ鍛錬をしてきた者が、その完璧な打ちをさらに昇華させて生み出した、その人だけの超技術なのであって、大学から始めた者が早々できるものではない。
 ああいうパンチを食らわないようにするには、やはり、自分から身体(顔面)を突き入れて相手の間合いの内側でパンチを受け止めるしかない。相手のパンチの間合いの外に逃げるのではなく、前へ出て間合いの有効性を消してしまうのです。
 西暦1600年、関ヶ原の戦いで西軍の島津藩が見せた「島津の退き口」という、前へ退却するという攻撃です。

 

 2019年3月14日

  平栗雅人

 

続く