私たちが縄文人であることを実感させてくれる本や映画、話題

はじめに
文化として楽しむ大学日本拳法
2017年も、日本拳法のブログで大いに楽しませて戴きました。
生きるか死ぬか、という思いで打つ渾身の面突き。相手を「殺すほどの気迫」で思いっきりぶん
殴りながらも、そこには「場と間合いとタイミング」に裏打ちされた美しさがある。
二度とない、たった一度、コンマ一秒という一瞬の真剣勝負でありながら、再現性を保証する技
術としての理論と思想、芸術としての美しさをもつ日本拳法には「一瞬のなかに永遠を見る」と
いう矛盾を乗り越える楽しみがある。
ケンカ以上の迫力ながら、天地自然の理から導き出された美しい真剣勝負の姿は、神をも感じさ
せる普遍的・絶対的な時間と空間のなかで輝いています。
早い話が、日本拳法という真剣な殴り合いの一瞬が、一部の人間によって作られた常識や法律で
がんじがらめにされた虚の自分を、大自然に由来する本来の自分・真(まこと)の自分に立ち返らせ
てくれる。
短いようで長い3分間とは人生そのものでもあるのです。
観客席やテレビ画面でゲームを楽しむ野球やサッカーとちがい、相撲や日本拳法には、戦いの時
間と空間に一体化し、自分も選手に成りきるという楽しみ方ができる。スーパーマンやスパイダ
ーマン、マッチョマンでなくても、理に適(かな)い、筋の通った突きや蹴りに投げ、試合の持って
いき方の妙とは、そのまま自分の体験となるでしょう。
その意味で、各大学の「日本拳法ブログ」とは、選手と一緒に熱くなれる人たちが作り出す、も
う一つの真剣勝負の場です。彼らの心から発する言葉や写真は、血なまぐさくて荒々しい、汗く
さくて臭くて痛い「格闘技・武道・殴り合い」を、格調高くてしかも面白おかしい、多様で重厚
な日本文化の味に変えてくれる。たとえそれが短い文章、何でもない写真であっても、日本拳法
的なる感性から発するリアリティ(現実の重み)に溢れている。巷に氾濫する浮(うわ)ついた情報に
はない、もう一人の真剣勝負師たちの素の輝きがあるのです。
日本人にとって、物心両面での一大変革期であった明治時代、物事を素の心で見ることで、西欧
文明に飲み込まれず、日本人本来の心で西洋文明をうまく消化していこうと戦った男、正岡子規
の俳句のような味わい。
その意味では、夏目漱石や北村透谷、芥川龍之介といった文学者たちもまた、日本人的な感性で
西洋文明を取り込み、その文化を料理しようと必死に戦った。文明とは(科学)技術であり、その文
明を楽しむ心が文化であるとするならば、自分だけの狭い殻の中で日本的感性を弄(もてあそ)んで
いた川端康成とちがい、かれらはまさに戦う文学者だったのです。
門外漢ではないが部外者の私には、勝った負けたという結果よりも、そこに向かって発揮される熱い心、友情や(後輩への)愛情、そこに醸しだされる味わい・文化を楽しもうとする。
ですから、ある大学のブログで、OBが「あの大学に絶対連覇させるな」「リベンジだ」なんてカ
ッカしているのに、学生の方は(もちろん闘志を燃やしているのでしょうが)、選手もマネージャー
もマイペースで淡々と練習をし、道場での時間を楽しんでいる様子をかいま見て、生真面目なこ
の大学の性格というか文化(伝統的なスタイル・ソフトウェア)を感じることができたようで、楽し
くなる。現実に殴り合う日本拳法という世界で、選手、マネージャー、そしてOBという、それぞ
れの立場における「熱くなり方」は、個人のキャラクターと相まって、写真や文章に更なる存在
感を与えてくれるのです。
「鳥飛べば羽落つ」。自然とブログににじみ出る「真剣勝負日本拳法」の味わい。
釣った魚の数よりも、景色と一体となり釣りを楽しむ「孤舟蓑笠翁」の如く、雪の降りしきる
国で、学生日本拳法の熱い心に啓発され、古い思い出を新しい革袋で楽しんでいます。
2018年1月
平栗雅人
「過去で生きていたものと、現在に生きているものとが一つでなければ、歴史ではない。」
(秋山真之の息子、秋山大(ひろし)の言葉)
芥川龍之介は小説「蜜柑」で、つまらないニュース(社会)に飽き飽きした彼が、横須賀線の車内
で一緒になった一人の少女に、日本人らしい簡素な美しい心を見ることで、一時(いっとき)ではあ
ったにせよ、鬱屈していた心が晴々とする喜びを綴っています。
「真理はそのままでもっとも美しく、簡潔に表現されていればいるほど、その与える感銘はいよ
いよ深い。」(ドイツの哲学者)
大正時代、芥川は陽(ひ)の光に踊る蜜柑に、昭和のはじめ、梶井基次郎は八百屋の店先の燈(ひ)に
照らされた檸檬に、大自然の一部として確かに存在する自分を見ることで、社会に押しつぶされ
かけたそれぞれの魂が救われたのです。
日本人であれば、一個の蜜柑や檸檬という「大自然」によって、日本人本来の素の心になれる。
「ディズニーランド」に象徴されるゴテゴテした娯楽などなくても、一輪の花に、一服のお茶に
、日本拳法の一枚の写真に、大自然との接点を感じ安心することができる。
日本人には日本人というたった一つの原点がある。映画「君の名は。」に描かれた「日本人は再
び日本人として生まれ変わる」というストーリーに共感した1000万人以上の日本人とは、そこのところを感じ取ったのです。
冥土への土産話はもうできたと思いきや、学生たちのあふれるパワーや、映画「二十四の瞳」を
思い起こさせてくれる、道場の子供たちのあまりにも美しい瞳は、新しい思い出を増やしてくれ
ます。
私が大学生の頃に比べると、今どきの(日本の)大学生は本当にかわいそうだ。
政府は地震が来る、ミサイルが飛んでくると脅し、医者はガンだ高血圧だと脅し、警察はテロだ
詐欺だ痴漢だ万引きだと脅す(神奈川県警のパトカーに「息子は詐欺 !?」なんて、でかいステッカ
ーが貼ってあるのを見て、本当に情けなくなった。日本人が同じ日本人を信じられなくなるよう
に煽動しているかのようです。日本以外の国で、こんなみっともない看板を掲げてパトロールし
ている警察なんてあるのでしょうか。)。
四十年前なんて、まるで別世界のようにのんびりしていたものなのです。
そんな、人々をリードする立場の人たちが「ことさら危機をあおる時代」「大衆に恐怖を与える
ことで自分たちの存在感を示そうとする社会」のなかで、まるで司馬遼太郎の小説「坂の上の雲
」に登場する主人公たちのように、日本拳法による生活を通じて、坂の上にあるそれぞれの「白
い雲」をひたすら見つめ、邪心のないストレートでひたむきな心で、困難な坂を上ろうとする学
生たちにエールを送りたい気持ちです。
2017年 6月 平栗雅人愛 で
は、おまえはいったい何をどう楽しんだのか、と言われれば、大学日本拳法ブログにあふれる
存在感といいますか、実感です。
「ああ、これが愛情か、友情というものなのか」とか、「この人は、ふざけたり冗談を言ったり
していても、真剣に殴り合うという世界で、確かに存在している。」
「我おもうゆえに我あり」といいますが、むしろ私は「自分の身体で汗水流し、自分の頭でもの
ごとを考えることのできる本当の人間を(ブログで)見ることで、この自分も間違いなく存在して
いる」と、実感できる幸せ。
警察が「息子は詐欺 ?」なんて人々に不信感を植えつけ(警察だけを信用しようという、自己宣伝)
、政府は「ミサイルの恐怖」を煽る(対抗するために日本ももっとミサイルを購入しよう、そのた
めにもっと税金を払いましょう、政府の言うことを聞きましょう、と誘導する)。
どこにも本物・本気・真剣味のない、安物の芝居。作られた虚像、プログラム化された出来
事に、99%の人が右往左往するという映画「マトリックス」の世界が、まさに現実となってきた

しかしながら、小説「蜜柑」で、少女が空に向かって蜜柑を投げた一瞬に人間と景色の存在を実
感し、人生の重みと喜びを心から味わうことができた芥川龍之介ではありませんが、大学日本拳
法ブログの言葉や写真からは、生きた人間の存在感、リアリティが伝わってくる。
「オレは(まだ)生きているのだな」という実感がわいてくるのです。
① 愛情
今年度(2017年)、各校の大学日本拳法ブログで最も感激・感涙したのは、先輩が後輩へ注ぐ、後
輩が先輩へ向ける、温かい心でした。
後輩たちが新人戦で3位になり、涙を流して喜ぶ先輩やOBたち。
【速報】2017日本拳法 東日本大学新人戦【詳報は別途投稿予定】
http://rissho.kempobu.org/%e7%b5%90%e6%9e%9c/2017%e6%97%a5%e6%9c%ac%e6%8b%b3%e6%b3%95%e3%80%80%e6%9d%b1%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%a4%a7%e5%ad%a6%e6%96%b0%e4%ba%ba%e6%88%a6/
個人戦で優勝し、トロフィーをもってポーズする後輩の後ろで一生懸命彼女の栄誉をたたえよう
と健闘する4年生の女子たち。
東日本女子個人優勝
https://ameblo.jp/aoken-wakiwaki/entry-12323705058.html
彼ら・彼女たちの姿には、思わずもらい泣きしてしまいました。
嘘ばかりのこのご時世、彼らと無関係なこちらまでホロリとさせられてしまうニュースなんて、
極めて貴重なのです。
部員全42人で、全日カウントダウン
https://ameblo.jp/kandai-kempo/entry-12323905098.html
関東人の私からすると、やはり関西人というのは情に厚いのかな、としみじみ思います。
彼らが、まるで兄弟のようにして、先輩が後輩を慈しみ、後輩が先輩を慕う姿は、「しゃら
くせぇ」とも思うし、羨ましくもある。
関東では、友達とか仲良しという関係であっても、(変な意味ではなく)情を通じ合うという、
関西的な濃い人間関係というのは、特に東京のような極めて人工的な都市に住み人間にとっては
、最近はなかなか見れなくなっているのではないか。
主将として。
https://ameblo.jp/kandai-kempo/entry-12335008788.html
「主将が勝てばチームは勝つ」という言葉を自戒とし、更にそれを励みにして戦おうとする強い
責任感。
ここには、関東人から見て「ふてくされている、太々しい」と感じる、日本拳法の試合で時折彼
らが見せる、あの関西人特有の「匂い」はありません。 純真な一(いち)スポーツマンとしてのす
がすがしさと謙虚さ、そして、数十人という集団を引っ張っていくのだという重い責任を背負い
ながら、それを前向きに乗り越えていこうというガッツがあるだけです。
彼ら関西人の「お茶目な態度」というのは、試合での駆け引きの一つであり、関西という古い歴
史と外国人が多い環境に生きてきた人間に染みついた自己防衛機能であり、日本人としての存在
を実感するための証明でもある。日本拳法という、最もケンカに近い格闘技における、ひとつの
正当な技術であり、日本人としての一つの重要な文化とさえ、近頃わたしには思えてきた。
そして、いま目の前で展開される美しい光景と真実の言葉に感激しながら、更に私は、数十年前
の思い出を楽しんでいるのです。
私たちの時も、後輩が全日本に出場と決まったときには、真剣にアドバイスをし、皆で盛り上げ
たものです。
「中村が全日本 ? まあ、態度のデカさじゃ日本一だからな。」
「民謡選手権ちゃうんか ?」
「勝負始め、と同時に、会津追分かなんか歌って敵を動揺させろ。」
「底辺あってのピラミッド。立派に討ち死にしてこい。」
なんて。
「これが愛なのか ? 」と言われるかもしれませんが、相手に関心を持ってあげる、悪口を言った
り茶化したりするという言動によって相手の存在を認めてあげるというのも、ひとつの「愛のか
たち」といえるのではないでしょうか。
愛の日本拳法
さき頃、某大学の日本拳法部旧部室跡から発見された文書。
当時2年生でマネージャー業務も兼務していた選手)の手によると思われる。数十年間も土に埋もれていた
ため、虫食い、湿気で損傷が激しく、特に個人名の部分は判別不明(●●)である。
しかし、先輩を尊敬し、慕う、愛情のこもった文章は、数十年の時を超え、人情酷薄な現代社会に生きる私た
ちに、忘れかけていた、日本人的なる温かい心と厚い人情を思い出させてくれる。
当時のバンカラな時代にあって、こんな素晴らしい「先輩への愛」があったのです !
五号館のシンドバッド(ピンクレディの歌「渚のシンドバッド」より)4年生紹介第3弾の今日は、我らが日本拳法部の選手嫌敏腕マネージャー、ちゃん松こと●●先輩です!!
●●先輩は言わずと知れた、●●大学日本拳法部が誇る、天才マネージャー兼選手です
拳法の指導力・教育力はもちろんですが、●●先輩が指導される時にお使いになる言葉には、どれも心がこもっ
ていて、わかりやすいです。
「テメエ、コノヤロー」「バカヤロー」「シネ」等々。
毎日、部員の背中を竹刀でボコボコどついたり、ガンガン蹴りを入れています。
そして、●●先輩にはこの2年間で、大きな愛なくしてはできない愛のムチのほか、たくさんのことを教えて
頂きました。
予算を流用するための「裏金作り」や、競輪・競馬・パチンコ・麻雀への投資術など、教室では決して学ぶこ
とのできない、そして、社会に出てからも役に立つ貴重な教えばかりです。
マネージャーの日常的な仕事はもちろんですが、試合中「何でもいいからぶっ飛ばせ(一説には、ブッコロ
セ)」と真っ赤な顔をして応援する姿に、いつでもリング上の選手と一緒に戦う真剣さを教えて頂きました。
●●先輩は練習や試合中はしっかり者ですが、とーーーーってもおちゃめな方でもあるんです。
女子学生を見る目はハートマークですし、練習後に道場から部室へ帰るときには、必ず5号館(短大)の女子便
所の前を経由してきます。「! SOS ! 今日もまた誰か、乙女のピンチ」(渚のシンドバッドより)
目指せ短大生の彼女獲得!
まだまだあります!!
プレゼントのセンスは宇宙一。
お目当ての女性には、吉野屋の牛丼の割引券を渡します(巣鴨駅前で無料配布中のもの)。
「お嬢さん、牛丼もう一杯いかがですか」が、牛丼屋での口説き文句だそうです。
私の拙い語彙力では、●●先輩の魅力を語ることはできないです。ほんとうです!!!
2つも上の先輩ですが、ど・どうにも憎らしくて、ぎゅーーーっと首を絞めたくなってしまう。
人間として持ちたくない●虐性・凶●性・●慈悲・狡●さすべてをもっている完璧な先輩です。
私が4年間日本拳法をしても、絶対に絶対に真似できません。
卒業後は警察官になるとのことですが、日本拳法で育んだその「愛」を、ぜひ社会のために生かしてほしいと
思います。「禍を転じて福となす」という言葉もありますから。
(実際、昭和51年の8月まで、警察官になると仰っていました。毎日東スポばかり読んでいましたが。)
・・・。
以下、損傷が激しく判読不能。大阪の女
私は以下の2つのブログに、「大阪の女」(女性といわずに、敢えて女)を見た。
① https://ameblo.jp/kandai-kempo/entry-12330067735.html
<引用開始>
失礼します。
三年次生の藤川です。
前回最後のブログになると思い、先輩方への想いを語ったにもかかわらず
カウントダウンリレーが始まり、この場にもう一度現れてしまいました、、、笑
嬉し、恥ずかしい気持ちです。
秋合宿も終わりまして、全日まで3週間を切りました。
私は最近一年後の引退する自分を考えます。
部活を背負う重圧に心細くなるのと同時に引退された先輩たちがとても大きく感じました。
周りの人にたくさん迷惑をかけましたが、私はこの3年間で大きく成長できたと思います。
しかし最後の1年ではもっともっと成長して、先輩方に負けないようなかっこいい先輩になりたい
です。
こんなめちゃめちゃで可愛げのない私たちを見捨てず、いつも気にかけてくださり本当にありが
とうございました。
これまでの感謝は全日当日の声援と、これからの拳法部にかける姿勢に代えて返していきたいと
思います。
先輩たちと一緒に部活ができてよかったです!
一生ついていきます!卍
<引用終わり>
この「引きのうまさ」。
まったく無関係の私までもが、つい、半歩踏み込んでしまう。
前拳や後拳が動くという、物理的・肉体的な踏み込みではなく、心が動くのです。
派手な服装や化粧、お色気ではなく、自分を貶める(一段下にする、遠慮する、引っ込む、謙遜
する)ことで、逆にその存在感はグッと増す。
「恥ずかしい、心細い、迷惑をかけて、めちゃめちゃで可愛げのない私・・・」なんて言いな
がら、しっかり自分の存在感を「堂々と、自信を持って、誇らしげに、そしてなによりも「めちゃめちゃ可愛らしく」打ち出している。
さすが、人情の機微を弁えた関西人。 これが、「大阪の女(の可愛らしさ)」というものなのでし
ょう。
「大阪で生まれた女」が名曲である所以が、ようやくわかりかけてきました。
踊り疲れたディスコの帰り
電信柱にしみついた夜
大阪で生まれた女やもん
負けられへん
大阪で生まれた女にとって
夕焼け色のビルは喜び
大阪で生まれた女にとって
明日を感じる何かがほしい
大阪は今日も活気にあふれ
又どこからか人が来る
青春は何かをつかもうとする時
ゆがんだ正義をつかまされもする
私が今まで(頭で)知っている「大阪の女」とは;
「王将」坂田三吉の妻、小春
「殺陣師 段平」段平の妻 お春、くらいです。
単に、辛抱強くて男に尽くす、という程度の理解でした。
しかし、2017年に発信された関西の大学日本拳法ブログや、特に上記の2つから、大阪の女 → 大
阪人の気風 → 楠木正成公の強さの理由、なんてところまで考えてしまいました。
もっと「大阪の女」を知るために
「悪名」シリーズ(に登場する、中村玉緒、藤原礼子、ミヤコ蝶々、安田道代、坪内ミキ子、嵯
峨三智子、月丘夢路、安田道代さんたちに注目)
森繁久弥の「社長」シリーズ(に登場する、関西のクラブのママさんたちの、駆け引きの丸くて、
巧妙なこと)。 このシリーズには、必ず関西支社が出てくる。日本企業、特に商社関係では、関西
流の商売のスタイルは、絶対に学ぶ必要があるのです。(昔の役者というのは本当に上手い。間の取り方、タイミングとリズム、場の雰囲気、役に完全に
成りきっている。今の映画やテレビドラマなど、学芸会並で、とても観れたものではありま
せん。)
今回、「大阪の女 」を強烈に印象づけてくれた2つのブログから、再度、「悪名」や「社長シリ
ーズ」などの古典名作映画を見、「関西の女性は引きがうまい」という認識に至りました。(もち
ろん、ドラマの中での役どころ、ということも考慮した上で)
因みに関東の女性とは、一般的に(やはり、その役に縛られているということもあるでしょうが)
、原節子や岩下志麻、倍賞千恵子に代表される、直線的で、あくまで前へ向かって問題を解決し
ていこうというタイプが多い。関西女性は、押したり退いたり、拗ねたり甘えたり、ふくれた
りと、男(相手)とのやり取り、キャッチボールがうまい。
それは「退く・引く」力という、妙技ともいえるごく自然の、丸いコミュニケーション力(りょく
)なのではないか。直線的なやり取りではなく、円やメビウスの輪のような、混みいった引きがで
きる。京唄子・鳳啓介、かしまし娘、正司敏江・玲児の漫才の女性方の場合、かなり相手の男性
を攻撃しているにもかかわらず、引きながら攻めている。それは漫才の技術やコミュニケーショ
ン術なんていうものではなく、大阪人に染みついた本能的な力なのだろう。
それにしても、「一生ついていきます!」なんて、「王将」坂田三吉の妻小春みたいです。
しかも、意味が私はよくわからないのですが、卍(まんじ)。
ホンマに関西人は濃いで。
② https://ameblo.jp/doshishakempobu/entry-12328377860.html
これこそ、「関西の日本拳法」ではないのでしょうか。
「あーれー、やめてぇー」なんて格好をしながら、相手がその弱みにつけ込んで攻撃してくるの
を待っている。「ジョジョの奇妙な冒険」にもこんなスタイルがあったか ?
河内の楠木正成公とは、戦(いくさ)が上手だった。相手を油断させておいて討つ、引き込んで
絶つ。そういう、陰と陽、押しと引きのコントロールが絶妙であったようです。
黒板をバックにした、この写真の女性(男性でしたら失礼)を見て、それを思い出しました。
40年前に見た、立教と日大のキャプテン同士の名勝負。私なんぞが偉そうに言えませんが、ま
あ「傍目は八目の強みあり」。
立教は、まさに場と間合いとタイミングの芸術のようで、日大の方はといえば、間合いとタイミ
ングが抜群で、更にそのスタイルが「引きの妙」でした。「勝敗は兵家も事期せず」。強い弱い、勝ち負けは別にして、私たち関東人は、関西流(の日本
拳法)を、更には、人間としての彼らのねちっこくて・濃い感性・スタイルというものを研究して
みれば、非常に面白いと思うのですが。
ある関東の大学のOBの方が、関西に遠征した折、彼ら関西の大学生の態度に違和感を感じた、と
いうようなことを述べていらっしゃいました。
今回、「大阪の女」を考える機会を得て、You-Tubeで見るだけですが、時に、彼らが(試合のな
かですが、殴り合いの最中ではなく、それ以外のちょっとした場面で)見せる、拗ねたような、ふ
てくされたような彼らの態度に、昔ほど違和感は感じなくなっていました。つまり、かの関西ス
タイルとは、彼ら関西人の歴史的な背景に由来する「日本文化」であり、長い歴史を持つ日本民
族の重厚性・多様性の証明とさえいえるのではないか、と思うようになってきたのです。
いまや、府立(全日)などという機会を通じて、同じ日本人でありながら異なる感性を持つ人
たちと、コミュニケーションできる時代。日本拳法という、本気で殴り合い、なりふり構わず戦
うという場で理解を深め合うというのは、学術交流なんかよりも、よほど直截的で実利的で現実
的な交流の仕方であり、今の大学生たちは、なんてラッキーなんでしょう。(私たちが現役の頃
には、大会(公式試合)で大学単位で交流するという機会はありませんでした。)
お行儀のいい・常識を重んずる、悪く言えば画一的になり易い、もっと言えばマトリックス的
な「AI人間」になりかけている私たち関東(東京)人にしてみれば、彼らが試合で時折見せる太々し
い態度には、あまり馴染めないかもしれません。
しかし、日本がファシズム的国家(ハメルンの笛吹きに踊らされて集団自殺)になろうとしている
昨今、関西人の持つ「もう一つのトラディッショナルな日本人的感性」が、日本を救う一つの大
きな力になるかもしれません。日本拳法界のガラパゴス
この大学の日本拳法部(のHP)ほど「衝撃的な日本拳法」はない。
http://meidainihonkempo.grupo.jp/
日本拳法で勝つため、人は形を学び、防具練習に励み、技術を研鑽し、スタミナ・パワーをつ
ける。
しかしこの大学には、体育会らしい若さとか、躍動感が、(多少バンカラ的な私からすれば)全く
感じられない。まるで、紀元前ギリシャの哲学者か、インドの奥地に棲む化石化した修行者か。
噂によると、こちらの日本拳法部の合宿における練習とは、防具をつけて中段の構えになり、1
週間そのままの姿勢でいるのだという。太極拳どころか、時間の流れを止めるという、かの「ジ
ョジョの奇妙な冒険」の空城承太郎(くうじょうじょうたろう)のスタンドを取り入れた、恐ろしい
拳法らしい。
かつて、釈迦が数年間に及ぶ苦行・難行という「動の修行」のあと、沙羅双樹の下に1週間坐禅
をするという「静の修行」をし、終(つい)に悟りを開いたというが、まさにそれを思わせる、大変
厳しい練習方法なのです。
彼らはどこかの無責任な大学生とちがい「何でもいいからぶっ飛ばせ」なんてアドバイスはしま
せん。
「君、前拳は偏差角45°、ベクトルを0.3パーセント軌道修正してくれたまえ」と、正確無比。量
子力学や動体力学、地球物理学なんてのを駆使して、日本拳法を追求しているのです。
なにしろ「静」ですから、彼らの試合の動画を見ても全く動いていない。
また、試合で彼らと戦う相手にしても、彼らの姿は全く見えないのである。
まさにこれこそ、日本的なる無私の精神、宮本武蔵の到達した空の境地ともいうべき、日本拳法
至高の姿であります。
こちらのHPの見どころは、そのトップページにある。
一番上のスライド写真。
花束を持った部員たちが談笑している「新興宗教の集会」を隠し撮りした写真と、老人ホームを
慰問に訪れた、将棋同好会と鉄道研究会のメンバーが、お年寄りを囲んで談笑している写真。
若さを感じさせない、淡々として枯れた心境がそのまま絵(写真)になっていて、青山のレニ・リ
ーフェンシュタールと言われたあの方でも、こんな形而上学的なる造型美を演出することはでき
ないでありましょう。
! ビッグ・ニュース !遂に来年度、待望の女子部員が入部予定。田之上クマさん(寡婦)。84歳だそうです。
次世代の体育会に求められる、全く新しいソリューション。
それが、防具をつけて戦う実践的宇宙物理学者、相対性理論によって戦いを哲学する名古屋大学
日本拳法部。
かれらこそ、日本拳法界のオーパーツ、新しい時代の日本拳法人なのです。日本拳法に恋をしました
2017年で最も不愉快なブログです。(自分では死んでもこんなことは言えないので、悔しいのでし
ょう)
https://ameblo.jp/wasedanikken/entry-12325035884.html
「恋をした」なんて、ヌケヌケといえるところが、なんともこの大学らしい。
日本でこんな言葉を口にできる大学生はいないのではないだろうか。どこか、尾崎士郎の「人生
劇場」を思い出してしまいます。
この方の個性ということもあるでしょうが、何となく、この大学の校風・気風というものを感じ
ます。
こういう個性的というか我が強いというか、主体性がある人たちを束ねるというのは、かえって
むずかしい。40年前の東洋大学日本拳法部とは、太平洋戦争の頃における日本と同じでしたから
、その点、マネージメントしやすかった。
日本はドイツから参謀本部という考え方を学びましたが、間違った学び方をしてしまった。ドイ
ツ人は全員が参謀本部と同じレベルになる(全員がインテリジェンス(知性)を持つ)ことを求めたの
であって、日本のように、上層部の人間だけが全てを知り決断するという、封建的なスタイルで
はなかったのです。
「百尺竿頭に一歩を進む」「道を求めて止まざるは水なり」
苦労していい大学に入ったのだから、もういいではないかと思うのですが、竿のてっぺん
に行っても尚、その上を見ている。どこまで行けるか楽しみでもあります。
私たちの頃は、あまりいい意味ではないconservativeでした。むしろ、封建的と言うべきか。です
から、昭和54年度卒の面々は、自由で屈託のない、明るい校風というか日本拳法部の気風を指向
していました。
組織としての上下関係、苦しい練習を乗り越えるための厳しさは大切ですが、「日本拳法に恋を
しました」なんて、1年生でも言えるくらい伸び伸びとした環境でなければ、チームは盛り上がっ
てこないのでしょう。
大阪府立登美丘高校ダンス部の様子をYou-Tubeで見ましたが、あの練習というか教育スタイルで
やれば、どこの学校でもどんなスポーツでも強くなるでしょう。
もちろん、指導者の類まれなる(ダンス)センス、時代感覚、数学的思考、そして、指導者も選手
も「浪花女のど根性」がある、という個別の事情もありますが。
一番素晴らしいと思ったのは、「観客を楽しませる」ことまで考えてダンスを組み立てていること。ちょっとちがいますが、「日本拳法はオナニーではない」という言葉をこれまた思い出し
ました。独りよがりの拳法ではいけない。常に、(戦う)相手を意識して戦えという。宮本武蔵の二
天一流という剣法が他の流派と決定的にちがうのは、そこにあった。敵の心を見て戦え、と。剣
や身体の動きを見るのも大切だが、それをコントロールする心を見ていれば、敵の次の動きが予
測できる、ということであり、その故に武蔵は無敵だったのです。
勝新太郎の「兵隊ヤクザ」シリーズを観ると、封建的な上下関係を目的化したような昔の日本の
軍隊の姿が描かれていますが、あれは実話なんです。
日本が先の大戦に負けたのは、米国の物量やら原爆技術ではなく、天皇陛下・軍隊・警察
といった権力を絶対化してしまった、その日本人自身の弱さにあった。
大阪人はオレオレ詐欺に遇う被害が関東に比べて非常に少ないそうですが、彼らは役所や警察の
いうこと・マスコミの情報を疑ってみるという機能を持っている。東京は、関東大震災と太平洋
戦争の空襲くらいですが、京都や大阪というのは、1000年にもわたり、戦乱で何度も街を焼かれ
ている。為政者にだまされてきた歴史が半端ではないから。「ハメルンの笛吹」は関西人にとっ
て、決して童話ではないのです。
誰がどう、個人的に天皇を好きになるのは結構ですが、権威を利用し日本人全員を戦争に引き込
んでもらっては困るのです。浪花の女
2分30秒に賭けた青春
日本拳法の府立(全日)に相当する、年に一度の大勝負「高校ダンス部 日本一決定戦」 第10
回(2017年8月17日) 準優勝校、大阪府立登美丘高等学校ダンス部に見る、日本拳法。
日本拳法をやっていた私には、多くの学びがありました。
自分の感情をダンスで表現する。それにはただ、たらたら・チャラチャラ踊っているだけでは
駄目。観客の心を動かそう(感動させよう、笑わせよう、)という強い意思と工夫が必要。
日本拳法と同じで「オナニー」では駄目。審判や観客という「敵」と戦うんだ、というくらいの
積極的で挑戦的な意識をもたねばならない。
大舞台で踊る前にキャプテンの林さんが皆に言います。「自分から先に入る」気持ちで踊るんだ
、と。
日本拳法では、コンマ一秒、或いはコンマゼロ一秒先に、自分から(自分の優位な)場に入り、自
分の間合いとタイミングを先につかむ。この時点で勝利が確定しているとも言える。自分の身体
を自分が求める最適な位置に持っていき、最良の、絶対にこれしかないという間合いとタイミン
グで行動(攻撃)する。
ダンスもまったく同じなんですね。
絶対にここしかないという場所に、絶妙のタイミングで入る。その場における周りの踊り手たち
と違和感の無い間合い(距離)を取りながら、その場から移動する。その際にも、これまた絶妙のタ
イミングで抜ける(移動する)。周りの踊り手たちとまったく同じタイミングで動くのですが、相手
の動きを待って(見て)いては遅れてしまう。常に自分が先にその場に入る、行動する(踊る)という
つもりで互いが行動してこそ、まったく同じタイミングになる。
しかし、これはもう同じ純血種である日本人同士でこそできる芸当です。
混血人たちは、完全にプログラム化された踊りを、機械的にこなしていくという踊りなのですが
、日本人の場合には、心と心がつながっているから、踊り手一人一人の個性が発揮されながらも
、美しい協調性が発揮される。
台灣に住んでいた6年間、私は大学に通ったり、大学の図書館にだけ行ったりしていましたが、
毎日のように図書館の前の広場やキャンパスで練習する台灣人のダンスを見ていた。
1980年代に流行った、テレビの「高校生ダンス選手権」よりもグッとレベルが低い。形だけの踊
りを機械的に繰り返すだけ。
その理由は、先ず第一に彼らは日本人のように必死に練習しない。
台灣人や韓国人という異民族のなかで生きてきた人間は、金にならないと必死になれない。日本
人のように趣味の一環でありながら、プロ顔負けの練習をするなんてことはない。たとえば、彼らが日本人と友達になりたいなんてよく言いますが、必ず金か技術、男は日本女性
とのSEX目当てです。親切にしたり笑顔を振りまくのは、必ず見返りを期待してのこと。そういう
環境で何千年も生きてきたのだから、仕方がない。
1964年の東京オリンピックの女子バレーで優勝したニチボー貝塚の選手たちは、あくまで趣味と
してバレーボールをやっていた。他の国の選手たちは、優勝すれば生涯年金がもらえるとか家や
莫大な賞金をもらうためにやっていた。
ニチボー貝塚の練習とは、「スパルタ教育」という言葉になったくらい厳しいものでした。それ
を誰の命令でもなく、自分から飛び込んで、ヒイヒイ良いながら必死に食らいついていく。現代
の登美丘高校 ダンス部も同じでしょう。日本人とは、金にならないことに必死になれる民族なん
です。
当然ながら、台灣人や韓国人のダンスなんて、日本の高校生の足元にも及ばない。韓国人なんて
、下手な踊りを整形顔とセクシーな踊りでごまかしているだけだ。
また、混血人たちは、自分で工夫するということができない。
アメリカは分業社会だといわれますが、与えられた役割を機械的にやるだけで、自分の仕事を哲
学したり、仕事の範囲を広げたり掘り下げようなんてことはしない、できない。
アメリカでAI(人工知能)やロボットが求められるのは、気の利かない・やる気のないアメリカ人
よりも、そちらの方がよほどいいとアメリカ人自身が思っているからなのです。
台灣人や韓国人も、アメリカ人ほどではないにしても、金にならないことを積極的に自発的に精
力的に研究したりしない。
だから、台灣人大学生のダンスなど、機械的で無味乾燥です。個人個人の工夫がないから。
個性だの、メリハリだの、パワフルなんて感じがまるでしない。
混血人というのは、コンピューターでいう、CPU(プロセッサー)やOS(オペレーティング・シス
テム)が幾つも存在する。一つのCPU、一つのOSではない。
だから、なにか入力があると、それを解決するために最適なCPUとOSを探し出さねばならない。
そのために、日本人のような1CPU、1OSの民族に比べてレスポンスが遅い。日本人のように、多
くの人間が無心になって心を一つにするなんてことは、絶対に無理。あくまで機械的に動きを決
めておいて、プログラム通りにやるしかない。登美丘高校 ダンス部のような、各人が個性的で
且つ、場やタイミングのずれのないダンスを、しかも幾つものちがったダンスをやるなんてこ
とは、とてもできない。
唯一良い面としては、日本人とちがい、騙されにくい。
沢山のCPUとOSで、色々な考え方ができるから。しかし、よほど強力な宗教によってバラバラ
のハードウェアとソフトウェアを統御できないと、精神的に分裂症になる。
基本的に、混血人というのはみなユングやフロイトのように、精神分裂症。
だから、キリスト教が必要なのです。韓国や台灣は、是が非でも日本から離れないという「小判鮫」的な生き方しかできない。生きる
ことに精一杯で、日本人のように自分たちで文化を生みだして楽しむということがない。
登美丘高校 ダンス部の2017年度のキャプテンを韓国系の芸能プロダクションが手に入れて、彼女
で荒稼ぎしたあとは、その優秀な遺伝子をコピーする(韓国人と結婚させる)。美空ひばりは山口組
三代目という後ろ楯がいたから、韓国人にたらし込まれなくて済んだが、いまや優秀な日本人は
、どんどん韓国人や台灣人と結婚したりして、その血が薄まっていくでしょう。
ダンスでも日本拳法でも、それを必死にやっていた人間というのは、頭に知識を詰め込むだけ
の「インテリ」に比べて、まことに人間らしいというか、禅における老師のように、本性を見極
めた人間という感じがします。
この瞬間、絶対にこの位置に入り、この間合いとタイミングで正確に攻撃(ダンス)をする。
これを極めた人間というのは、本当に人間になりきっているがゆえに、来世も間違いなく、その
人となって生まれ変わってくるでしょう。つまり、肉体と精神を完全に一致できる、そしてまた
、完全に分離できる人間というのは、肉体が滅んでもその魂が生き残るからです。
私は日本拳法では三段など遠く及ばず、禅寺で老師になったわけでもない。
しかし、肉体と精神の一致と分離という経験は、大学時代の日本拳法と商社時代の5年間、そし
て35歳での禅修行のみならず、運命として日常生活のなかでこれを体験してきました。
TDCのキャプテンは高校生活3年間で、充実した濃い、「肉体と精神の一致と分離」を極め、こ
れからも精進されるでしょう。私の場合はそこまで濃くはなかったが、大学5年間と僧堂4年間、
そして、なによりも商社時代の5年間という、これは恐らく彼女に負けないくらいの濃くて充実し
た時間を積極的に取り込んいました。
彼女やコーチのAKANEさんの必死になる姿、登美丘高校 ダンス部の(テレビを通じての)活動とは
、私たち大学日本拳法のそれとまったく同じである、という安心感と誇りを感じさせてくれた。
TDC(登美丘高校 ダンス部)
○ 独創性
浪花(堺)という環境から醸しだされる、都会的でありながら泥臭い、いわゆる大阪人的な感性を
、全国的に通用するようにうまくアレンジしている。だから、奇抜で個性的なコスチュームや踊
りでありながら、日本人としてホッとさせられる。
○ 時代性の表現(今の日本人が心の中で求めている「バブル期のパワフルでエネルギッシュな、あ
の日本人」を、そのものズバリ見せてくれている。
これは2015年の「Hero」や、2016年の「大阪のおばさん」というダンスも同じです。
彼女(たち)には、政府やマスコミが景気が良くなったとか、観光立国だなんてカラ騒ぎしている
今の社会こそがバブリー(虚構)であり、政治家も大企業の社長にも、真の指導者(ヒーロー)と呼べるような人がいないことが、よくわかっている。
「あれ、ボッタクリやないか」という、「大阪のおばさん」冒頭の言葉は、政府やマスコミに対
する大阪人らしい批判でしょう。
上は超エリートから大衆まで、もはや全員がAI(人工知能化)し、プログラム通りに物事を考える
人工人間になりつつある東京人は、もはや、大阪人のような「正常な思考」ができなくなってき
ているのかもしれない。
○ ダンスそのものの切れの鋭さ、スピード、連動性
たしかに、2015年の「Hiro」2016年の「大阪のおばさん」における、しっかりとした見せ場にく
らべると、技術的にうならせる、驚愕させる部分は、ないことはないが少なくて短い。今回優勝
したチーム(同志社高校)に比べると、全員が機械仕掛けのように整然と動く美しさという点では一
歩及ばなかったかもしれない。
しかしそれは、登美丘高校のコスチュームに見られるように、彼女たちが個性を主張する姿・踊
りを指向しているからだ。
服装がばらばらだから、どうしても統一的なダンスにみえないところもあるだろう。
また、80年代における日本人のパッション(情熱)とは、あくまで個人の爆発的なエネルギーの発
露であり、それが組織的にまとまっていたのがあの時代だったのだ。ディスコ・ジュリアナで踊
る女性たちは整然と、しかし、はち切れんばかりの個性的なパワーを発散させていたではないか
。現代っ子の女子高校生たちは、ビデオの一端からそれを敏感に感じ取り、確実に理解したのだ

2017年の登美丘高校ダンス部の面々が、画一的な思考しかできないAI人間たちに受け、優勝でき
るような画一的な踊りをやろうと思えばできただろう。しかし、彼女たちは、個人の情熱やエネ
ルギーを優先させた。バラバラの服装と相まって、現実よりも観念的な芸術性しか持ち合わせな
い審査員の目には、TDCの個性的なダンスは受け入れられないのだろう。
だが、大衆は彼女たちを支持した、というよりも、理解した。
だから、彼女たちを真似たダンスが、日本中で社会現象化した。幼稚園・小学校から結婚式、忘
年会とあらゆる場で発生したのである。
機械的な美しさや整合性という、無難な評価で人生を恙なく行きようとするお役人的人間たちの
見る目と、民間人の感性の違いをここに見ることができるではないか。
○ 個(個性)と集団(協調性)によって生み出される様式美
○ 指先、脚、(長い)髪の毛を生かした機械的なようで、生き生きしたパワフルな動き
○ 各人の(顔の)豊かで工夫された表情
等々が、短い時間のなかに凝縮されているという意味で、他を圧倒している。
だいたい、ユニフォームではなく一人一人がバラバラの服装で個性を主張しながら、全体で見れ
ば見事に一体化している、というのはこの学校くらいではないのか。巧くても美しくても、踊ることに精一杯の学校もあるなか、曲の局面、場面に合わせて一人一人
がダイナミックに表情を変える。個性的な表情の集積が全体の顔になっている。
いることはまるで、本気で殴り合う真剣勝負、全人生をかけた一発勝負の趣。
自分たちがどこまで真剣になれるか、自分の持つ可能性をどこまで掘り下げて、「唯一無二」を
実現できるか、にある。
黒澤映画「一番美しく」で描かれた女性たちと同じで、金なんか関係ない、国家に認めてもらう
ことでもない。自分が自分に集中する充実感が、そのまま集団の、そして(日本)社会の幸せにつな
がるという幸せ。
自分が自分の持ち場(先鋒とか大将戦)で勝つ。その積み重ねが団体戦での勝利となる。一人一人
が個性的な拳法でありながら、全員が同じトーンで統一されている。40年前はそんな感じでした
。(最近の拳法は実際に試合を観ていないのであまりよく知りませんが)
たとえば「相手が前に出てきたら、自分も前に出て打つ。相手が下がったら、更に前に出て打つ
」のが、東洋の拳法。なんのことはない「アホみたいに、いつでも、ただ前に出るだけ」なんで
すが、とにかく、そういう闘志が基調であり、その上で、私みたいにもっぱら面突きの相打ちば
かり指向するのもいれば、場と間合いとタイミングを生かして、スマートに勝つタイプもいる。
一人一人バラバラな個性を持ちながら、一つの学校、或いはその地域、そして、日本人らしさが
ある。
日本拳法の試合時間は3分間、ダンスは2分30秒。自分の持っているものすべてを「一瞬」に投入
することで、どこまで自分の拳法、自分のダンスができるかに命を懸ける。
彼女たちは、そんな短い時間で、見る者すべてを感動させた。「バブリー」というテーマ(名前)
ですが、実際にはあの時期の日本人のパワフルさを表現している。今の日本人は全員、心の中で
そんな日本人に郷愁をもっているのですから、「日本人全員の期待に応えた」という意味でも素
晴らしかった。
彼女たちの練習風景
指導者のアカネさんの怒声・罵声が飛ぶ。
「苦しそうな顔をしないで下さい !」「こら、ボケ、なにさらしとんじゃ ! 」
そうです。40年前の私たちも日本拳法で、同じように「苦しそうな顔をするな !」「バカヤロー
」などと、竹刀でたたかれていました。2浪して入ってきた中学・高校と運動などしたことのない
奴なんか、しょっちゅう練習中に倒れていた。誰も介抱なんかしなくても、 数分間、道場の隅で
横になって、再び、防具練習に復帰していた。。
「ただ殴るんじゃない。相手の面を突き破り、顔面にパンチをのめり込ませ、頭蓋骨を砕いて、
拳が相手の脳味噌ごと向こうへ飛び出る。それくらいの殴り方。蹴りでも、相手の内蔵をぶち破り、背骨を砕いて、自分の蹴った足が相手の後に突き出るくらいの強力な蹴り(をしないと、審
判は一本として認めてくれない)」と、そういうところは懇切丁寧に教えてくれていましたが。
大阪府立登美丘高校ダンス部、コーチのアカネさんという方は、練習では、本当に厳しくて冷酷
ですが、同じ練習時間でも、休憩時間には選手と友達というかお姉さんのように優しい。これは
まさに「ニチボー貝塚の大松博文監督」とおなじです。
あの織田信長だって、真剣になれる人、本当に努力する人には非常に優しく、寛大だった。
彼をして「高慢・狂人」という評価は、当時の日本の坊主や、汗水流して働かない貴族が言った
だけです。万里の波頭を乗り越えて日本へやってきた、「男の中の男」ともいうべき当時の宣教
師たちは、全くちがう視点で織田信長という男を見ていた。そして、そういう宣教師たちを正し
く評価する目があったのもまた、信長だけだったのです。
「フロイスの日本史」には、日本人の評価とは全くちがう、真の信長像が描かれています。また
、辻邦生の小説「安土往還記」にも。
真剣になって、その場その人に成りきれる。
役人・警察官のように、単にその役を演じているという、真剣味のない人種とはちがう。権威と
か肩書のない、実力・真心・真の自分で生きることができる。中身の濃い人生を生きている。こ
ういう人こそ、「何億・何光年」の時と空間を超えて、再び、この人間に戻ってこれる。実の思
い出を持つ人は、それを道しるべにして、来世を生きることができるのです。「下天(何億・何光
年の後にやってくる来世)にくらべれば、今のこの人生などわずか五十年。だからこそ、この人生
を(禅で言う)本来の自分、主人公(自分を本当にコントロールできる人間)となって、中身の濃い人
生を作り上げようではないか」と、信長は踊ったのです。
観客に感動を与える(自己満足ではいけない)
日本どころか世界中に感動を与えた、そんな素晴らしい彼女たちに比べて、お前は日本拳法の世
界で、いったいどこまで他人を感動させたり、期待に応えたことがあるのか。ただ、勝つか負け
るかだけで、人の心を揺り動かすほど「濃い時間」を与えたことなどないだろう、と言われれば
、まんざらそうでもない。
私が一年生で初めて(メンバー不足から)試合に出場した昭和51年の関東リーグ戦では、ちょっと
した事故で私が勝ってしまったのですが、その時の先輩の感動といいますか興奮は凄かった。
なにしろ、他の一年生が「ラスト30秒です」と言う声のあとで、興奮のあまり「ラスト300メー
トル、まくれ ! 」なんて絶叫する。競馬をやらない私にはよくわからないのですが、そのまま逃げ
きれ、ということだったらしい。また、大会終了後、電話でコーチに結果を報告した時には「
先行、鼻の差で逃げきって平栗が勝ちました」なんて、受話器を握りしめて叫んでいました。まさかトトカルチョでもやっていたのではないのだろうが。
また、昭和55年春のリーグ戦における最終戦では、全日本出場クラスの選手を「見事、大将戦に
おいて撃破」し、あの温厚寡黙な前年度のキャプテン桜井が、「見直したぞ平栗 ! 」なんて私に駆
け寄り、感激のあまり抱きついたくらいです。 もっとも、すぐに真相が明らかになり、線香花火
のように短い感動となりましたたが。
まあ、事情は色々ありますが、学生時代、2度までも他人を感動させることができた、これが私
の「ダンス・スタジアム」。
ケンカなんかしても校長室で反省文を書かされるだけなのに、同じ殴り合いでも、ここまで人に
感動を与えることができる日本拳法とは、私にとっては、まことに濃い一瞬(3分間)であり、人生
を楽しくしてくれる「踊り」であったのです。
それにしても、登美丘高校ダンス部の素晴らしいパフォーマンスを伝えるビデオを見るたびに、
ダンスそのものの見事さ以上に、そこへたどり着くまでのコーチと生徒たち、それを支える家族
、他の顧問の先生たちの苦労を思います。
たとえば、一日9時間の練習を夏休み中行っていたということは、その間も、彼女たちの母親は
、毎日お弁当を作ったり、衣装作成の手助けをしたりしていたのでしょう。 ですから、私なん
ぞは、むしろ、そういう苦労(皆が楽しんでやっているから、「前向きで充実した努力」とでもい
うべきかも)を想い、涙ぐんでしまいます。
リーダーの条件
演技の前に円陣を組み、登美丘高校キャプテンは全員を見回し、一語一語静かに、噛みしめ
るように言います。
「心配することはないぞ。いけるよ。」
「絶対いける。」
「集中して。しっかり集中して、自分の位置は自分から入る(日本拳法なら、先に打て、自分から
攻めろ。待つな)」
「自分も楽しむし、(観客にも)楽しんでもらう「日本拳法はオナニーではない」」
そして「一本決めるぞー !(勝つぞ、勝つぞ○○)」っと、冷静な、低い声で、うつむいて唸り
ます。自分が自分に集中する姿を見せることで、その集中力が肩を組む全員に伝播していくかの
ようです。
いいですね、浪花女(たち)の演じるこの場面。何度見ても涙が出てきます。
上州赤城山で、国定忠治が可愛い子分たちを前に最後の口上を述べる浪曲の行(くだり)。その場面が目に浮かびます。「月煌々と冴えわたる、赤城の山に流れゆく、忠治身内の円蔵が、
吹く横笛にしみじみと」
彼女は、練習のときと同じことを選手たちに期待し、それを選手たちに「思い出させよう」
としているのです。「練習と同じことをすれば、絶対にいけるんだよ」と。日本拳法とちがい、
「相手に勝つ、敵を打ちのめす」なんていう意識はありません。ただただ、自分との戦いなんで
すね。
毎日部員の誰かが倒れるくらい苦しい、私たち大学日本拳法の練習以上かもしれない。そん
な厳しい毎日のなかで鍛え、掘り下げてきた真の自分を、この檜舞台の上でもう一度再現しよう
、あの時の自分を思い出しさえすればいいんだよ、と。
織田信長が「 下天は夢よ、ただ狂へ」と、強敵今川義元軍への奇襲攻撃をかけるとき、自ら舞っ
てみせることで、部下たちに「狂え」(集中力を発揮せよ。そのものに成りきれ)と言い聞かせたの
と同じです。
「勇将の下に弱兵なし」
日本拳法をやる皆さんが試合の前に、もしも「なんでもいいからぶっ飛ばせ」なんてアドバ
イスを受けた時は、こっそりスマホで彼女の気合いを見て、気を取り直してください。
一口に「彼女たちの圧倒的な練習量」なんて言いますが、口で言うほど容易なことでは
ない。90人の部員がそれぞれの個人的な事情を排し、都合をつけ、やり繰りをして、同じ時間・
同じ場所に集まるという時点で物凄い苦労です。どれだけ、自分のやりたいことを我慢し、時間
を節約して、皆と一緒の時間を作るか。
さらに練習では、限られた時間をいかに効率的に使い、合理的に練習の流れをつかむか。体
育館で屋上で、自分個人に全神経を集中しながら全体をよく見て、音楽とダンスの流れにのめり
込み、90人全員が一体化する努力。
一人で上手に踊る人や、技術的に素晴らしい人は幾らでもいるでしょう。しかし、個性的な
服装と踊り表情を維持しながら、目に見えない波長でほかの数十人と強力に同期し、皆が同じレ
ベルで、統一されたリズムとコミカルなパフォーマンスを発揮するというのは、単に練習量や
体力・技術で解決できることではない。全員をまとめる一人のリーダーの元で、一人一人が自分
が自分のリーダーとして自主的に動くからこそ、最後まで充実した練習をし、濃い時間を全員で
共有できたのではないでしょうか。
日本人性の濃い血(血液ということではなく、性格・感性・ノリ・ソフトウェア)によって、内
面的に一体化しているからこそできること。
「コロンブスは、彼らがアメリカ大陸を発見した時よりも、むしろ、そのたどり着くまでの
苦労の連続にこそ充実感があったにちがいない」とは、ドストエフスキーの言葉ですが、試合(舞台)に到るまでの刻苦勉励、中身の濃い練習こそが彼女たちの勝負であり、人生であったのかも
しれません。
少年少女世界の名著3 東洋の魔女
大松博文の言葉
「ニチボー貝塚の特徴は厳しい練習よりも、その明るさにある」
「試合はコートの上だけで決まるものではありません。毎日の暮らしも大切です」
「持っている力のありったけを出し切って活動することが、若い喜びそのものだった」
「喜びとはその辺に転がっているものではない。自分で作り出すものだ」
「こっちが勝つんじゃない。むこうが負けるんだ」
「たとえ勝てるとわかっていても、精一杯プレーしてこそ美しいのです。
気を散らしながらのプレーは、相手をバカにするばかりでなく、自分をもバカにすることです。
その時は勝っても、最後の勝利からは見放されてしまうでしょう」
東京オリンピック(1964年)のとき、「我々は勝つためにやってきた」と自信満々に豪語していた(
当時の)ソ連バレーボールチームの監督(ソ連選手団の統括マネージャー )。
その彼が述べた言葉。
「我々はニチボーチームについて調べ尽くした。その上で計画を立てたが、どれ一つとして思い
通りにはいかなかった。ニチボーの前では、我々の計画はただの計画でしかなかった。ソ連チー
ムの攻撃には心と心のつながりがなく、スキだらけだった。」
「それに比べてニチボーチームの素晴らしいまとまり。完全なチームワーク。私は、ニチボーの
プレーに、芸術のような美しさを感じさせられた。あれでは、ソ連チームは攻撃のしようがなか
ったろう」
「勝つためには技や作戦ばかりでなく、選手たちの固い友情が必要なのだ」
これは2011年サッカー女子ワールドカップで優勝した「なでしこジャパン」にも当てはまるでし
ょう。
日本の女性(のチームワーク)というのは本当に凄いんですね。旅行
どこに旅行すべきか、という質問がありましたが、旅行とは日常から開放された時間と空間のな
かで、普段得られないような刺激を受けることに意味があります。早い話が、毎朝の通学・通勤
経路を、道一本・バス一本変えるだけでも旅行になる。
私など、東京へ行くたびに12時間1000円という、蒲田のネットカフェに泊まる。連泊するとき
でも、ちがう環境を経験するために、必ず別のブースに寝泊まりする。空調の排気口が真上にあ
ってうるさかったり、角部屋で静かだったり、隣人がちがえば、それもまた刺激となって楽しい
。咳や歯ぎしり、おならや独り言など、家に比べれば全くもって不愉快で不健康な環境ですが、
ゆっくり寝ることなど家で幾らでもできるし、この歳になれば死ねば幾らでも寝れると思ってい
るので、それが2・3日だろうが1年であろうが、冥土の土産にできると、楽しむことができる。
ただし、海外旅行となれば金もかかる。
せっかく遠くまで行くのなら、そこでしかできない経験ができる場所にしたいでしょう。
私が一つ言えるのは「人間が小さい、小者」の国に行くべきではない、ということ。
たとえば、アジアでは台灣と韓国。
国土が小さいということではなく、人間のスケールが小さい。
台灣などアジアでも有数の親日国といわれているが、「親日」には、それなりに理由がある。自
分たちに自信がないから、金と技術と文化のある、それでいてお人好しでだまされやすい日本人
に近づこうとしているだけ。台灣も韓国も、第二次世界大戦後、つい数十年前に独立国になった
ばかり。なぜそうなったのかといえば、、この両国に住む人間というのは、いつでも国を売るタ
イプの人間ばかりだから。台灣の客家という種族は、日本の統治時代、日本軍として戦争に参加
したくないが故に、子供を中国の奥地に疎開させていた。
台灣人も韓国人も、自分たちの国家のために命を懸けて戦うなんて意識はまるでない。いつでも
逃げ出すつもりでいるから、日本人には異様に愛想がいい。
私は台灣に6年間いて、もっとも収穫があったのは、台灣の大学に留学していた中国人の大学生(
北京大学・浙江大学、南京大学・モンゴル)たちだった。彼らには、ガッツと誇りと人間の大きさ
があった。やはり、自分たちの国を自分たちの血と汗で守り抜いてきた奴らは、どっしりとした
人間としての存在感を持っている。その意味で、台灣人や韓国人とは、人間に成りきれない「
妖怪」でしかない。
日本人の若者が旅行して勉強になるのは、アジアでは中国、欧州ではドイツ、そして、アフリカ
。かの土地の人間と文化は、精神的に大いに刺激となるでしょう。青山の骨董品屋の店主は言い
ました。「本物を見極める目を養うなら、5年間本物か偽物、そのどちらかばかり見ていなさい」と。私は台灣という「偽物国家」で人や国家を見る目を養いましたが。
どう旅行すべきか
早く自分のスタイル・ルーチンを確立することです。
私は東京へ行く時には、まず浅草に行き、日本の回転寿司やラーメン屋へ行き、台灣の嘘っぱち
との違いを味わい、ドンキや100金で日本の最新の文化を見る。早朝、歩いて上野経由御徒町、秋
葉原へ。上野警察署の前で、毎朝必ずスピーカーを持って「上野警察署の○○課長は嘘つきだ。」
と抗議するオッサンを観察します。近所の弁護士によると、この方は厚生労働省の前でも同じよ
うなことをやっておられる「名物男」なんだそうです。マスコミなんぞに紹介されなくてもいい
から、自分の足で、目で見て納得できるような名所・人を味わうのが私の旅の味わい方。
御徒町では、早朝割引で700円という床屋へ行く。ここの職人さんたちが丁寧で巧い。もちろん
、洗髪がないので、そこから5分の銭湯へ行く。ここは朝7時からやっていて、番台に座るご主人
がいかにも下町情緒あふれるオッサンなんです。次に、近所の古着屋を見る。さすが東京、結構
いいものが100円〜1000円くらいで手に入る。Tシャツみたいな肌に直接つけるもの以外の衣服は
、味のある古着が好きです。
で、再び歩いて秋葉原のジャンク通りをブラブラし、200円の電気カミソリやヘッドホンなんか
を手に入れたりする。壊れていようが、一切返品お断りなんて、ギャンブルみたいなものですが、
公営の宝くじやラスベガスのスロットマシーンなんぞより、ずっと回収率は高い。紛い物をつか
まされたことは一度もない。さすが日本の民間人は信用できます。最後は駅前のヨドバシでジャ
ンクではない正規というかホンマモンを見ておく。
そして、電車で蒲田へ。
ここで、すぐネットカフェに行けばいい席が空いているし、荷物を置くこともできるのですが、
たとえ1時間100円でも行かない。大きな荷物を持ったまま、蒲田温泉という55度の高温湯がある
銭湯へ行く。熱さでフラフラになり、死にそうになって出てくる。大学時代に練習で体験したこ
とを、こんな形で「思い出す」わけです。
駅前の地元の回転寿司で5皿450円で満腹。10年くらい前までは大勝軒の大盛り(600グラム)ラーメ
ンなんかを食べていたのですが、いまやこれで十分という年齢になったということでしょうか。
20時ころネットカフェへ行き、今晩はどんな煩(うるさ)い奴の隣になるのやら、と不安と期待で一
夜を明かす。
翌日が羽田から飛行機に乗る、という時は、銭湯までは一緒で、後はジョナサンで最終電車まで
いて京急で羽田空港へ。歩くルートや入るトイレ寝る場所は決めていますが、季節や曜日によっ
て自分の思うままに行かないのがまた楽しい。駐在員時代、旅行会社に飛行機の切符やレンタカー・ホテル、レストランの予約までやってもらい、エスカレーター式に旅行するのに比べ、
不便で不愉快ではありますが、自分でルートを作り、アドリブで乗り物を変えたり人と接したり
という旅のスタイルの楽しみ方が、今の私には楽しい。作り物の旅行ではなく、自分で汗をかき
、トラブルや不愉快な目に遭うという(負の)現実あってこそ、存在感を実感できるというものでは
ないでしょうか。
。ラインとスタッフ ドイツ参謀本部の思想鶏が先か、卵が先か はじめに
鶏が先か、卵が先か
部が強いからマネージャーが育つのか。
マネージャーがチームを後押しするのか。
はじめに
私は会社員時代、マーケティングの仕事として、取り扱う装置に関するカタログや資料を作成し
たり、電気や半導体の専門雑誌に記事を書くといったこともしていました。
昼間は各地の半導体工場を回り、売り込みと情報収集をし、夜の8時頃から深夜〜早朝にかけて
会社のワープロ・ルームにこもり、電話や雑事から開放された静かな世界で集中して書いたもの
です。私の経験では、23時から3時までが一番集中できる時間帯でした。
なにしろ完全にその装置や市場に精神を没入し、精根傾けて書いたのですから、充実感と満足感
の固まりのようになって、寝不足にもかかわらず意気軒昂です。
ところが、朝出勤してきた課の女の子にそれを読んでもらうと、専門知識の部分は別にして、文
章の構成や流れ、使う単語などについてボコボコに叩かれる。彼女は京都女子大を出てボストン
大学に留学していたくらいですから、頭は切れるし思ったことは素直にずばずば言う。
自分だけの世界で舞い上がっていた私は、がっかりし腹も立つのですが、貴重な意見ですから神
妙に教えを請う。
懲りずに今度は、お勉強は大嫌いだけど、明るくて愛嬌があってなんていう受付嬢にも読んでも
らう。彼女の場合、知識や頭でなく感性で読むから、課の女性とはまた違うおもしろいアドバイ
スをもらう。
彼女たち以外にもたくさんの「スタッフ」が助けてくれました。経理、財務、法務に人事課、ソ
フトやハードのエンジニア、手当たり次第にお友達になり、自分を助けてくれるスタッフにして
いました。「立ってる者は(遠慮しないで)親でも使え」です。
エンジニアたちは、装置の専門家ではあっても宣伝や広告には無力だし、法律やお金の専門家も
半導体製造装置なんてよく知らない。また、彼らは国語の教師でもない。
しかし、彼ら自身の専門分野をベースにした一般常識という視点で私(の戦いのやり方)を見ても
らう、商売上の様々な相談に(傍観者として)乗ってもらう。
文章を見てもらうばかりでなく、商売のやり方(戦いのしかた)について、私の常識はずれで突拍
子もない発想について、極めて常識的な人々の指摘する論点や戦いの流れ・構成・演出といった
ソフトウェアの部分で、多くの有益な助言をもらったのです。
特に理系の方々は、私の「文学的な」文章を彼らの(頭の中で)抽象化し、彼らの(頭の中で)抽象化し、記号や数式を見るようにして読む(解く)ことができる。(ここで学んだのは、発想は文学的に
、文章化(構成)は数学的に、ということでした。) 理系の人というのは発想が比較的ダイレクトで
すから、商売の仕方についても有益なアドバイス、気づきをもらいました。私は毎日、全国の客
先を回って情報を集め、深夜・早朝に時差のある海外の取引先やわが社の駐在員とリアルタイム
でやり取りし、会社のエンジニアや取引先と交渉する。 まさに体育会的な体力を使って得た新鮮
で確実な情報であるからこそ、彼らインテリの知性が生きてくるのです。
文章については、いつも何が問題かといえば、私自身がある製品を完璧に説明しようとして「深
入りして」しまい、周囲を見ないことにある。自分の視点でばかり話をするので、観客である読
者は退屈し、読むのに疲れてしまう。一生懸命読者に説明しているようで、じつは本当に読者の
ことを考えていない、「贔屓の引き倒し」というわけです。
一人で勝手に踊っているようなもの。「坂の上の雲」第一巻で、正岡子規が同級生である秋山真
之のケンカのしかたを「見てくれもせぬ踊りかな」と評したようなもので、ただ相手をぶちのめ
せばいい、勝てばいいというケンカのしかたでは駄目だ、ということなのです。
日本拳法でいえば、自分だけの了簡で攻撃して、それで満足している。相手のいる試合になって
いない。相手の動きや心を意識してそれに対してinteractive(双方向)に適切な攻撃をする、という戦
い方ではない。かの名言「日本拳法はオナニーではない」という話です。
このラインとスタッフの関係を大学日本拳法部という組織に当てはめてみればどうでしょう。
選手という実戦部隊(ライン)をサポートするマネージャー(スタッフ部門)は、練習や試合場での
サポート業務、道着・防具の管理、OBや大学サイドへの連絡・広報活動、そして、部員たちの精
神的な潤滑油といった役割にプラス、試合における戦いの流れや急所といった面に関しても、い
いアイディア・おもしろい視点を提供できる可能性をもっている。選手に最も近い場所に、いつ
もいるのは彼や彼女たちなのですから。
(防具をつけたことがないという意味で)日本拳法について全くの素人であるがゆえに、かえって
見えないものが見え、聞こえないものを聞くことができるかもしれないのです。
「金剛経」に曰く
「若以色見我 以音聲求我 是人行邪道 不能見如來」
(にゃくいしきけんが いおんじょうぐが ぜにんぎょうじゃどう ふのうけんにょらい)
それ色を以て我を見、音や声を以て我を知らんとするならば、汝過てり。如来(真実)を見ること能
わざりき。(心を見る・見ようとする大切さ)簡潔は知恵の精神
天皇への上奏文
「客歳二月上旬、連合艦隊か、大命を奉して出征したる以来、玆(ここ)に一年有半。今日復び和平
の秋(とき)に遇ひ、犬馬の労を了へて大纛(たいとう)の下(もと)に帰還するを得たり」 ( 明治38
年10月 秋山真之 起草 )
『2017年度前期納会』のご案内
投稿日 2017年6月24日 14時51分32秒 投稿者 橋本佳奈
失礼致します。
3年マネージャーの橋本佳奈であります。
7月2日(日)の『第2回昇段級審査会』の後、
2017年度前期納会を執り行いますので、詳細をご案内致します。
新体制となり早くも半年が経とうとしています。
前期の明大拳法部の活動も最後となり、
関係者の皆様との親睦をはかると共に、
前期の活動の反省と、後期に向けた抱負を話す会として、
納会を開催する運びとなりました。
ご多忙とは存じますが、是非ともご参加頂きたく存じます。

日 時:2017年7月2日(日) 18時00分開始
場 所:華龍飯店 神保町店
住 所:〒101-0051
東京都千代田区神田神保町1-32-1 山川ビルB1
■交通アクセス
地下鉄半蔵門線 神保町駅 A5番出口 徒歩3分
都営三田線 神保町駅 A5番出口 徒歩3分
地 図:https://r.gnavi.co.jp/ebhmm2x40000/map/
以上、失礼致します。眼下の敵 運命との戦い 出師の表
出師の表
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気清朗なれど
も波高し」 (1905年(明治38年) 5月27日 )
「本日天気清朗なれども波高し」の部分を、司馬遼太郎氏は「天気がいいのと波が高く船の揺れ
が大きい状況では、射撃の命中精度が高い日本側に有利である」という意味だとと、「坂の上
の雲」に書かれている。
だが私はそう思わない。
日本海軍の乗組員たちは、上から下まで全員が死ぬ覚悟で日本海の遭遇地点へ向けて出航した。
ある艦では、甲板から部屋から天井から、すべてを消毒薬で洗浄した。敵の砲弾を受けて多くの
乗組員の身体がバラバラになり甲板が血まみれになったとき、少しでも感染症を防ぐためだ。そ
ういうとてつもない恐怖に立ち向かおうという時でさえ、日本人は誰一人動揺することなく、静
かで晴々とした顔で出撃していく。しかし、彼らの心の中は闘志で渦巻き、荒れ狂う波のようだ
。 そ
ういう戦士たちの、まるで能の芝居を見るような静けさの中に秘めた旺盛な闘志(この戦いに勝
たなければ日本は滅びてしまうという危機感の激しさ)を、この一文で表現したのだと思います。
2017-06-17 23:25:41
こんばんは!
4年マネージャーの森屋です。
ついに
選抜まであと1日となりました…!!
今日の練習は
今年1番盛り上がったと思います。
選抜前に出来る最後の練習という事を
全員で意識して取り組む事が出来ました。
明治は今日までどこの大学よりも練習してきました。
防具練習も
トレーニングも
ビデオ研究も
出来る事は全てしてきたと思います。
あとは試合で今までの練習の成果を出し、勝つだけです!
量も質も日本一の練習をしてきたと、
自信を持って挑んで欲しいです。
私達は絶対に負けません!
優勝してみんなで校歌を歌いましょう!!
明日は選手全員
最高のコンディションで
得意技を生かした拳法が出来ますように!
サポートメンバー、マネージャー、
会場で応援して下さる関係者様
心の中で応援して下さる皆様
全員一丸となって優勝を掴みに行きましょう!!
勝つぞー!勝つぞー!明治!!
で、これが翌日のブログです。
第30回全国大学選抜選手権大会
2017-06-19 18:46:25
テーマ:ブログ
こんにちは!
4年マネージャーの森屋です。
第30回全国大学選抜選手権大会の結果をご報告致します。
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■1回戦
対 大阪市立大学 4-1 で勝利
■2回戦
対 愛知学院大学 5-0 で勝利
■3回戦
対 龍谷大学 3-2 で勝利
■4回戦対 中央大学 2-3 で敗退
■3位決定戦
対 同志社大学 5-0 で勝利
------------------------------
明治大学は今大会第3位となりました。
悔しいです。
団体戦で決勝戦に進めなかったのは私が1年生の時の選抜以来でした。
敗退した4回戦は1戦ずつが本当に紙一重での試合で、
だからこそ勝ち切れなかった事が本当に悔しいです。
この悔しさは絶対に忘れません!!
私達の最終目標はあくまで府立の優勝です。
2月の優勝祝賀会で百合草が、
このチームは絶対に府立優勝出来ると言いました。
去年より戦力が落ちていると、
自覚もあるし、周囲からも言われます。
でも私は百合草が優勝出来るって言ったら絶対出来るんだと思っています。
私の勝利への自信の1番の根拠は百合草です。
この先どんな事があっても絶対に揺るぎません。
今回の敗戦は府立優勝に必要な経験だったのだと、
あの時負けたから今回勝てたのだと、
そう思えるようにここからまた頑張っていくのみです!
紆余曲折ある方がドラマティックですしね。
部員は既に次の試合を見ています。今週末は矢野杯。
級の部、女子の部、段の部
全て明治で上位独占してやりましょう!!
この「負け方」がお見事。さすが、というか立派です。
まさに「爛柯経」に云うが如く、「よく敗れる者は乱れず」。
「小を棄てて救わざる者は大を謀るの心有り。」
あれだけの悔しさ、無念さをカラリと捨てて執着しない(救わざる)。
禅で云う「間髪を入れず」気持ちの切り替えができるというのは、選手に劣らぬガッツの持ち主
。男に生まれていれば、さぞかし良き禅僧になられたことでしょう。
私も学生時代、ずいぶんと無念を味わいましたが、こういうマネージャーというか、後ろからあ
と押ししてくれる存在がいたら、どうだったろう、なんてことを思うと、じつに愉快な気持ちに
なります。眼下の敵 運命との戦い 連合艦隊解散の辞
連合艦隊解散の辞
「二十閲月の征戦已に往時と過ぎ、連合艦隊は今や其の隊務を結了して茲に解散する事とな
れり。」
「百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚(さと)らば、我等軍人は主とし
て武力を形而上に求めざるべからず。」
「惟(おも)ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして、時の平戦に由り其の責務に軽重あるの
理無し。事有れば武力を発揮し、 事無ければ之を修養し、終始一貫其の本分を尽さん
のみ。過去の一年有半、彼の風濤と戦ひ、寒暑に抗し、屡(しばしば)頑敵と対して生死の間に出入
せしこと、固(もと)より容易の業ならざりしも、観ずれば是れ亦長期の一大演習にして、 之に参加
し幾多啓発するを得たる武人の幸福比するに物無く、豈之を征戦の労苦とするに足
らんや。」
「神明は唯平素の鍛練に努め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同
時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を奪ふ。古人曰く勝て兜の緒を締め
よと。」
1905年 12月21日 連合艦隊司令長官 東郷平八郎(秋山真之起草)
「勝て兜の緒を締めよ」なんて、私が言っているわけではありません。
このブログを読んだとき、かつての愛読書「坂の上の雲」第六巻に強く印象づけられた「連合艦
隊解散の辞」の一節が、彷彿として思い出されたのです。
今の(ブログの)文章が、過去の記憶をremindしてくれたわけです。
そこに込められた自戒と謙虚、たゆまぬ努力と闘志の心は、解散の辞と全く同じではありませ
んか。
全国選抜を終えて
2017. 06. 18 Sunday
21:49
こんばんは!
4年マネ赤井です。
全国選抜の結果は見事優勝となりました。
また糸井、後藤が参戦した東日本チームも優勝することが出来ました!
男女共に全国選抜の舞台で最高の結果を残すことが出来、前期の日々の練習の成果を
十分に発揮することができたのではないかと思います。
今回は5人制という形で優勝することが出来ましたが、7人制になっても優勝することができるよう、今後も更に練習の質を上げチーム力を武器に戦えるよう精進して参り
ます!!
今日会場に足を運んで応援してくださったOB、OGの方々や保護者の方、ブログを通し
て声援を送ってくださった皆様、本当にありがとうございました。
私達が優勝出来たのは日々、皆様が叱咤激励をしてくださるおかげです。
今後も府立優勝に向けて、部員一同頑張りますのでご指導、ご声援をどうぞよろしく
お願い致します。
今回の結果に満足することなく、中大拳法部はもっと強くなります。
「静かなる闘志」「静謐なる努力」とは、こちらの伝統なのでしょうか。
ブログを見ていると、各大学の個性が見えて面白い。
「お祭り早稲田」「stampers(蹂躙派)明治」とか。
同志社大学の場合は「濃い」というイメージが非常に強い。
京都の大学なのに、ブログを担当する人が大阪出身なのか、大阪的な「コテコテやでぇ」という
感じです。
関西というのは、特に京都は日本で第一の観光都市。特に海外からの観光客は日本で一番多い。
しかも、(大阪は)昔から中国人や朝鮮人が多く住んでいる。
そういう意味で、大阪や京都という地域に住む日本人は、「濃く」ないと、外国人の中でその存
在感が薄まってしまう。だから、男も女も、えもいわれぬ「濃さ」があるのだろう。
総合商社のMは、東京と大阪にそれぞれ本社がある。東京本社で社長になるには、必ず大阪本社
で副社長を経験しなければならない。外国人慣れした大阪人の商売気質を学ぶのです。礼の心
礼の心
日本海海戦が終了し、ロシアの受降(降伏調印)のため、提督の東郷の代理として秋山真之がロシ
アの旗艦ニコライ一世に赴いた時、秋山が先ず行ったことが、敵(の死者)に対する礼節であった。
秋山は敵艦に乗船するや、甲板に横たわる多くの死体につかつかと歩み寄ると、片膝をつき黙祷
した。この一瞬から、敵船内の雰囲気はがらりと変わり、ロシア人たちは憎き敵を見るに、きわ
めて穏やかな眼差しになったという。
(国際的な立場の低い)当時の日本を代表し、常に国際法を意識しながら海戦の場に臨んでいた東
郷提督や参謀の秋山は、しかしながら、自分や国家のために「パフォーマンス」をやるような男
ではない。はるばる黒海からアフリカ南端を通り、日本海で戦って死んだ死者の魂にたいし、正
直にストレートに、純粋な気持ちで敬意を表した。
私たち日本拳法人もそうだが、真剣勝負で戦う者同士、相手の心が直に伝わるものだ。
数百人の敵の乗組員たちは、秋山が持つ日本の武士の気風(戦いと礼の心)を一瞬にして感じ取っ
たのだろう。
この海戦を伝えた西洋諸国の新聞は、日本という東洋の小国が、決して野蛮人などではない、単
なる成り上がり者ではないという、驚きと尊崇の気持ちをベースにした論調で、この死闘を伝え
たという。
敵を殺す気迫によって、私たちは自分という人間の本性を見ることができるほど、純粋でストレ
ートな心になれる。 そして、この異常ともいえるほどの純粋さが、人間としての根源的な本能に
接することを可能にする。
更には、戦うその瞬間ばかりか、自分自身のうちに眠る「何億何光年分の物語」(RADWIMPS)さ
えも、思い起こさせてくれるのである。
その意味で、「神に対する謙譲」のほかに、私たちは殺し合いという行為を通して得られる貴重
な体験に対し、大いなるありがたみを感じ、敬意を表するべきだ。
日本拳法で、現実に相手を殺す(傷つける)ことはない。殺さないでも、超がつくくらい真剣になっ
て戦うことで、殺し合いの気迫を体験できる。
そうであれば、相手の選手ばかりか、(休日に妻や子供を放っぽりだして)審判をやってくれる方
々に対しても、試合会場を設営してくれる多くの人びとの努力に対しても、多大なる敬意を表さ
ないわけにはいかないだろう。やっぱり日本人
やっぱり日本人
「なんだ、この女は。」
自分が女であるという証明なのか、腰まで伸ばした黒い髪。
黒帯なんぞキリリと締めて、偉そうに腰に両腕をあて、おまけにケタケタ笑いながら男の背中に
蹴りなんか入れている。
こんな女は「四谷怪談」のお岩や「ジョジョの奇妙な冒険」第32巻の山岸由花子のように、嫉妬
深くて執念深い。 決して奥さんなんかにしてはいけないタイプだ。
こういう手合いは、一度でいいから試合でこてんぱんに負けて、「巨人の星」の星飛雄馬が左門
豊作にホームランを打たれたときみたいに、マウンド(リング)に這いつくばって大泣きでもすれば
いいのに、なんて一人で腹を立てていると、なんと、全国区の女子の大会では全勝なんかして
いる。 これはいかん。これではますます舞い上がってしまう、なんて思っていたのですが・・・

どこかの大学がブログに掲載した、優勝チームとしての集合写真を見れば、いかにも自信タップ
リで高慢ちき風なこの女性が、他の学校の女性たちと一緒に全体写真の中に入ると、すっかりお
となしい、淑女然としている。
ケバい女も、また別の学校の女ゲシュタポのような強面の娘も、日本人同士がみんなで集まり写
真に収まれば、一様に日本人、大和撫子のしっとりとした奥ゆかしさ、美しさを湛えているでは
ないか。
これが日本人らしさというもの。
強烈な個性をもちながら、衆に交われば、ちゃんと皆の中に溶け込んでしまう。
映画「二十四の瞳」(1954年)で、ケガをして家で静養中の大石先生を慕い、数時間も歩いてお見
舞いにやって来た小学校1・2年の生徒たちのようだ。
草履や下駄の鼻緒が切れ、辛くて空腹で泣きながら、クシャクシャになった顔でやっとたどり着
いた彼らは、先生の家でお腹一杯ご飯を食べさせてもらい、今度は満面の笑みで、河原で先生と
記念写真を撮る。
砂ぼこりの舞う荒れ道を、ハングリーさ丸出しで、まさに「餓鬼」のような顔をして、前へ前へ
と這うようにしてやってきた子供たちも、先生に会うという目的を達成し、腹も心も満腹になっ
たその時の顔は全員が同じ、天使のよう。
女性とはいえ、勇猛で鳴らした新潟の板額御前(はんがく ごぜん)の如く、男勝りの強靱な戦士
である大学日本拳法の女性たちも、やはり同じ日本人であった。個に居れば「お岩か山岸由花子」、衆となれば「二十四の瞳」。
やはり人間、(裏表ということではなく)メリハリがなくちゃいけません。
(大石先生は、修学旅行はおろ、学校に行くことさえ困難な当時の貧しい子供たちに対し、何もし
てあげられない、有効な助言さえもできない自分の無力さに悩み、結局は辞職してしまいます。(
暗に、子供たちの犠牲の上に教師という職業が存在するという、義務教育というものに対する一
つの見方を、監督の木下恵介は示したかったのかもしれません。江戸時代の寺子屋という、日本
人独自の自然で合理的な教育システムがあったのに)
しかし生徒たちは、教師という立場ではなく、一人の人間として子供たち一人一人と同じ目線
になって、共に悩み、泣き、笑ってくれる、そんな大石先生を慕い、数里の道程を歩いたので
した。)
これが金髪のメリケン娘なんかになると、いつでもおんなじugly。
確かに見た目はきれいだしグラマーだし、「100万ドルの笑顔」なんかするのですが、一人でも
大勢の中にいても自己主張が強すぎて、日本人からすると厭味になってしまう。「Ugly American
」なんて言葉があるくらいだ。
つまり、男も女も身体はでかいし、ハンサム・美人だし、軍隊も強いし、金も持っているのだが
、人の家に土足で入ってくるような暴若無人さがある。で、欧州では「Yankee go home !」なんて
言われてしまう。
まあ、アメリカという国は混血人の集合という点では世界でも最たるものですから、自己主張し
ないと他の民族に飲み込まれてしまうのでしょう。
だから、この国のハンバーグなんて、見た目は豪華だが逆に脂ぎっていて、オレを食え食えと脅
迫されているようで、かえって食傷ぎみになる。
ハンバーグなんてめったに食べませんが、どちらかといえば、自己主張しているがおしとや
か、一個一個手作り(風)で控えめな包装紙、、店の中もギラギラしていない日本のお店でしょう。勝敗は兵家も事期せず
「烏江亭(うこうてい)に題す」
勝敗は兵家も事期せず
羞(しゅう)を包み恥(ち)を忍ぶは是れ男児
江東の子弟 才俊多し
土を捲(ま)いて重ねて来たらば(捲土重来) 未だ知るべからず
勝敗は兵法家(戦いの専門家)でさえ、予測することができない。
恥辱に耐え、巻き返しをはかるのが真の男児。
項羽の出身地である江東地方にはすぐれた人物が多い。
砂塵を巻き起こす勢いでもう一度攻撃していたら、
どうなっていたかわからない。LED使い切るまで無い寿命 真剣勝負士たちのユーモア
(シルバー川柳より)
LED使い切るまで無い寿命 真剣勝負士たちのユーモア
なんといってもこの写真
追いコン開催!
2017年03月28日(火) 15時15分51秒
最後に、本会にお越しいただいた小島監督、小松原先輩、松原先輩のスリーショットのお写真
をもってこの記事を締めさせていただきます。
自分も、このOBの方々のように貫禄と輝かしさを兼ね備えた立派な人間を目指して精進して参
ります。
https://ameblo.jp/rikkyo-kempo/entry-12260423115.html
こういう自由な雰囲気が、こちらの昔からの伝統なのでしょう。
そしてこれ
http://chuokempo.web.fc2.com/index.html
2枚目の写真。
関東ではもっともconservativeというか、何事も控えめなイメージのある学校であるだけに、イン
パクトが強い。そのせいで、関係ない私までもが楽しくなる写真です。
この写真が、何でもお祭り気分で盛り上がる早稲田であったなら、「まあ、そんなところか」と
いうところなのでしょうが。
部員募集!
https://ameblo.jp/kokushikan-nihonkenpoubu/entry-12261776357.html
この学校らしい、正直でストレートで男っぽい「主張」です。
どこかの道場の標語、「やる気のある者は集まれ ! 」というところでしょうか。
今のご時世、こんなリアルな写真を見て拳法部の門を叩く新入生というのは、余程の覚悟がある
ということですから、もうそれだけで立派です。
もちろん、そういう方々はよもや自分が左側の人間になるとは夢にも思っていないのでしょう。
しかし、私の同期の高知の小松なんていう男は、1・2年生まではこんな感じで私や桜井に殴られ
てばかりいたのですが、3年生の頃からぐんぐん強くなり、私など相手にならなくなりました。
艱難汝を玉にす、大器は晩成す、ということでしょうか。
一年生自己紹介①
2016-10-21 22:25:45
https://ameblo.jp/aoken-wakiwaki/entry-12211963130.htmlこちらは、物語性・時間や空間の変化を感じさせるブログ(記事・文章)が多い、というのが特長と
いえるでしょうか。
誰もいないところ(時間)に、次の瞬間、誰かが登場する。
時間と空間の変化。過去と現在、そして未来は ? という、興味を湧き起こさせる。なにもない空
間から、「存在」という変化によって。
かつて、この大学の別の年度の新入生が「はじめに○○ありき」なんて、旧約聖書の冒頭の部分
を引用して自己紹介をされていましたが、やはりキリスト教の学校だけあって、そういう過去・
現在・未来という時間の感覚を強く意識しているのだろうか、なんて考えてしまいます。
禅でも「過去心不可得 現在心不可得 未来心不可得」なんて公案があるのですが。禅の発想では
、こういう写真(による表現)というのは出てこない。
ユーモアの中に、なにか深遠なものを感じさせてくれるのです。日本拳法は電気羊の夢を見るか 現実とは
(1982年公開のアメリカ映画「ブレードランナー」は、フィリップ・K・ディックのSF小説『アン
ドロイドは電気羊の夢を見るか?』(原題:Do androids dream of electric sheep?)を原作とし
ている。)
現実となにか。
自分は本当に自分の意思で生きているのか。
他人の考えや感じ方を拝借して、いかにも自分のものであるかのように振る舞っているだけで
はないのか。
人工の世界にひたる者は、その本性が素直に表れる夢さえ、人工の夢を見る。ましてや、途方
もない数の血が混ざる者たちは、それらの血がとんでもない夢となって現れる。( ユングもフロ
イトも、彼ら自身が分裂症なのだが、夢でその人間の本性を見ようとしても、彼らの本性とはひ
とつではないから、その場、その時、相手に応じて違う人格(本性)が現れる。いたちごっこのよ
うだ。)
アメリカ人も台灣人(客家人)も韓国人も、十把一絡げに言えば、みな精神分裂症だ。
彼らにはあまりにも多くの血が混ざり合っているから、ある日突然、別の自分が現れる。1973
年に米国で発表された、16の人格を持つ解離性同一性障害のアメリカ人女性の実話「失われた私
」は、それを物語る。(むしろ、黒人の方が血のルーツを特定しやすいかもしれない。) 第35代ア
メリカ合衆国大統領 John F. Kennedyは、50年前にこう言ったとされる。「アメリカ人はまだアメ
リカ人になりきっていない。100年や200年では血が完全に混ざり合わない」と。
台灣や韓国という国は、第二次世界大戦が終了してようやく、2000年もの長い植民地(属国)環
境から、とりあえず独立国にさせてもらった民族です。なかなか属国根性が抜けきれないし、中
国人やモンゴル人、満州人やロシア人という様々な民族と交わることで生き抜いてきた。
ベトナム人のように、3000年ものあいだ中国(漢民族)の侵入を拒み続け、現代ではアメリカの
侵略にさえ打ち勝った強靱な民族とは全く違う。強い国と混ざり合うことで生き延びるというの
が台灣人(客家人)や韓国人の人生哲学、生き残りの手段なのです。生き延びるという結果は同じ
でも、内容は違う。40年前に、大将として試合に出場しながら、胴突きばかりで、とにかく勝て
ばいいという「大将らしくない」戦いをした時の自分を思い出します。
混血人とは、若いときにはまだ良いが、中年以降になると、どんどんアンバランスな相が顔に
出てくる。様々な血が湧出してきて相剋するからだろう。一方、日本人は歳をとるほどに、どん
どん穏やかな顔になってくる。日本人という一つのルーツに帰るからだ。
日本人は、全員が家族という環境で数万年も生きてきたから心がひとつで精神が安定している反面、謀略に弱い。殴り合いのケンカでは世界で一番強いだろう。しかし、混血人は長年大国の
占領下でしたたかに生きてきた民族だ。強い者・戦争に勝つ側に取り入り、周囲の国々の同情や
憐憫を乞うことで世論を味方にする狡賢さには抜群のテクニックを持っている。そして、そうい
う嘘を現実に見せかけることもまた現実なのだから厄介なものだ。
まったくもって、日本人ほど心がひとつで安定している民族はいなかった。
だからこそ、彼ら(アメリカ人や客家人、韓国人)は自分たちと同じ分裂症にしようと、日本人
に対し様々な不安や脅威を与える。日本人の精神を不安定にし、日本人同士で信用できないよう
にさせ、疑心暗鬼にするだけで、国家など簡単に滅びる。ミサイルや潜水艦の脅威など、この恐
ろしさに比べれば子供だましのおもちゃのようなものだ。
たとえ三分間という短い時間であったとしても、現実に殴り殴られるという戦いをし、またそ
れをまるで自分のことのように感情移入して見守ることのできる仲間たちは、禅で言うところ
の「本来の自分」を見失わずに生きることができる。他の民族が悪意を持って仕掛けてくる「偽
の現実」に惑わされることは無いだろう。
芥川や江戸川乱歩が「退屈」と評した時代とは、日本人が現実を見なくなってしまった、そ
の嘘っぽさを敏感に感じ取ったのではあるまいか。

 

 


縄文人の文化